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教養を身につけるということ(2)…古典を学ぶ意味

はじめに

以前、「教養を身につけるということ」という記事を書いたが、その続きに相当する話を学生にしたので、記録を兼ねて書いておく。

今日(2019年10月21日)私が行った電子回路の授業は、受講者数がたった4人(普段は他クラスと合同でやるのでもっと多いのだが、スケジュールの関係でこの時期は合同が解消されてこうなる)。しかもそのうち二人が寝坊(10月に入って後期スケジュールになったのに、前期スケジュールのつもりでいたようだ)して、学生二人(日本人と韓国人)と私一人の授業になった。これじゃ授業を進めてもねぇ…ということで、進路選択に関するアドバイスなどしていると、話が流れ流れて漢文の話になった。

なぜ古典(古文・漢文)を学ぶのか

学生(日本人)曰く「返り点(レ点、一二点、上中下点、甲乙丙点)のルールを理解するのが難しかった」「漢字の読みが独特で覚えるのが大変だった」それに続いて口にしたのが「なぜ古典(漢文・古文)を学ぶのかわからなかった」と。
―あぁ、古典をテストのための授業としてしか習わなかった(習えなかった)のだろうなぁ…
と悲しく思った。幸いもう一人の学生(韓国人)も興味津々に話を聞いてくれていたので、まったく想定外だったが即席で古典の授業を始めてしまった。

良い作品は、楽しむ価値がある

まず「古典は試験のための勉強ではない」とはっきり断言した。私たちの周りには翻訳小説があふれているけれど、それはなぜか。どこの国で、どの言語で書かれたかに関わらず優れた作品があるから、言葉が違っていても、翻訳という手間をかけてでも読みたいと思う。古典を中等教育(中学・高校)学ぶ意味の大前提として「優れた作品は触れておく価値がある」。それがたまたま古い中国語(=漢文)で書かれていたり、古い日本語(=古文)で書かれていただけのこと。

漢文の中で私(山口)の好きな作品として、黒板に以下の詩を書いた。

勧酒.png

返り点を付けると

勧酒2.png

書き下し文にすると

「酒を勧(すす)む」
君に勧(すす)むこの金屈巵(きんくつし)
満酌(まんしゃく)辞するを須(もち)い不(ず)
花発(ひら)けば 風雨多し
人生 別離足る

この作品は井伏鱒二による名訳が有名で

この盃を受けてくれ
どうぞなみなみ注がせておくれ
花に嵐の例えもあるぞ
さよならだけが人生だ

と訳した。すなわち、きれいな花が咲けば風雨によってはかなく散ってしまうように、人生もまた出会いと別れがある。だから今はこの酒をどうぞあなたに注がせてください、という意味である。

この漢文を授業で習う意味は、先に行った素晴らしい作品を楽しむという面もあるが、それ以外の現実的な理由として大きく2つ挙げられると思う。

古典を学ぶ(現実的な)意味1:日本語のルーツを知る

日本にはもともと日本で話されていた独自の言葉があるが、その時は「文字」が存在していなかった。のちに中国と交流するようになってから漢文が日本に輸入されてきた。そのため日本では、文章を書くために漢文を学び、さらに漢文と(文字を持たない)日本の言葉を重ね合わせて、漢字によって日本語を表現する方法を考えた。(だから日本の漢字の多くは音読み(もともと漢で読まれていた発音)と訓読み(漢字に日本の言葉をあてはめたもの)の2種類がある。)そして、その漢文を変化させることでカタカナやひらがなが生まれて、現在の日本語に続いている。

そして先の「勧酒」を見ると、漢文(not日本語)であるにも関わらず、「風雨」「人生」「別離」と、今の日本語でもそのまま使える感じの並びがある。漢文の文化が日本語に取り込まれて現在まで生き残っているということだ。

国語教育の中で漢文・古文を学ぶ意味の一つは、日本語のルーツ(歴史)を体験して、より深く日本語を理解できるようになることにある。

古典を学ぶ(現実的な)意味2:リベラルアーツ(教養)を学ぶ

先に紹介した「教養を身につけるということ」とほぼ同じ内容の事を話した。

ある程度の年齢・立場の人であれば「知っていて当然」と思われている知識というものが文化圏ごとに存在し、それをひとくくりに「リベラルアーツ(教養)」という。日本語圏ならば漢文や古典がそこに含まれるし、英語圏ならばシェイクスピアや聖書(信仰の問題があるので必ずしも全員学んでいるわけではないだろうが)が入っていたりする。

オタクの世界でも「ハルヒは知っててあたりまえ」とか「エヴァは知っててあたりまえ」とか「ガンダムは知っててあたりまえ」などと言われることがあるが、広い意味ではこれも(オタクに必要な)一種のリベラルアーツと言えるだろう(ただし専門分野の違いや年代層によって細かく文化圏がわかれてしまうので応用性は低い)。

そしてこの教養が活きる例として、「教養を身につけるということ」に書いた「先達はあらまほしけれ」の話ともう一つ、以下の事例を話した。

蓬莱の玉の枝

小説家のなみあと先生がTwitterに

なみあと@8/17宝石⑨出ます @nar_nar_nar
会食の席で黙々と食ってたら、お取引先の方がお隣の部下さん指して「なみあとさんっていい人いるの? こいつ悪く思ってないみたいでさ」とかおっしゃって、宴席で楽しそうなところ上の顔潰すのもあれだったので
「蓬莱の玉の枝ご用意いただけますか?」
って答えたら一同笑ってくれたのでよかった
〔2019年9月19日 https://twitter.com/nar_nar_nar/status/1174644011698540544

という素晴らしい話を書いていた。(このご時世に「いい人いるの?」なんて取引相手に言うのはそもそも如何なものかとは思うが)

「蓬莱の玉の枝(ほうらいのたまのえ)」は竹取物語(かぐや姫)に出てくる。竹から産まれた「なよ竹のかぐや姫」が成長して妙齢となったころ、かぐや姫に求婚した5人の男にには、かぐや姫からそれぞれ「仏の御石の鉢」「蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」「龍の首の珠」「燕の産んだ子安貝」を用意せよという無理難題が言い渡されていた。もちろんこれらは用意するのが難しいどころかほとんどが存在しないもので、つまるところ、角を立てずに「お断り」をするための口実である。

だからなみあと先生は「蓬莱の玉の枝ご用意いただけますか?」と言うことで、相手の面子をつぶさずにお断りができたわけである。一同笑ってくれたということは、〈お取引先の方〉も真意を理解してそのまま引き下がったということだろう。このシチュエーションで笑うためには双方に教養として竹取物語の素養がなければ話にならないことは言うまでもない。しかも5つある品のうち、唯一頑張れば(金さえ出せば)一応作れる「蓬莱の玉の枝」をチョイスするセンスが素晴らしい。(その他は実在しないものだから、ここで「竜の首の玉をご用意いただけますか?」と言ってしまうと、お断りは一応できはするが、相当な皮肉になってしまう。)


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