N.Y.Cityのまちかど

Be_thankful

感謝で綴るちょっとした自分史

はじめに

自分の人生をやり直してみた事がないので比較のしようがないのだが、一応産まれてからこれまでの間、自分らしい、そこそこに幸せな人生を過ごしていると思っている。 そして過去を振り返ってみると、自分の人生は、「私を支えてくれる人に恵まれ」た人生ではないかとよく思う。感謝してもしきれないほど私を目にかけて助けてくれた人がたくさんいて、感謝してもしきれないほどだ。

ついこの間まで学生だったつもりが、気が付けば三十路になった。 元々年上の知り合いが多いせいもあるのかもしれないが、久しく会っていない親戚や知人が突如として亡くなってしまうという経験を何度かした。その度に、どうしてもう一度会えなかったのか、どうしてもう一度話ができなかったのか、と悔やんでしまう。

そうなる前に、せめて文章として、感謝の気持ちを残したい。

これはまた、ちょっとした私の自分史でもある。

書きたいことが山のようにあるので、ちょっとずつ増やしていくつもりです。

感謝でつづるちょっとした自分史

産まれてから~

両親

両親がいなければ、両親が出会わなければそもそも私はこの世に存在しえないわけで、これはもう無条件の感謝である。

私は父親がベーシスト、母親がピアノ教師という、かなり特殊な家庭に生まれ、幼少時からジャンルを問わず音楽や楽器に囲まれた生活をしてきた。 あまりにも厳しかったので私自身はちゃんと楽器を習わなかったが、逆に無理に押しつけることもなかったので、私は私のペースで音楽を楽しみ愛することができ、普通の人よりはたくさんの知識を得た。この知識は大学・大学院の研究や趣味の音楽活動に役立っている。

仕事の電話がしょっちゅう自宅にかかってくるため、母親から小さいころから正しい敬語、年上の人との話し方を叩きこまれたこともありがたい事の一つだ。小さいころから、同級生だけでなく、先生や近所の大人たちと交流を持てたことは、私の自我を作る上で大切な役割を担っている。

そして父親からはプロ意識を学んだ。自分の取り柄は何か、自分が他人に提供できるのはいったい何なのか、を小学生の頃から考えさせてくれた。結果として私は「コンピュータ」が取り柄で、これをひたすら勉強して飯の種にしようと決めるのだが、それもまた、たまたま父親が仕事のために導入したためにコンピュータを始めることができたのだ。(たしか初めてコンピュータに触れたのが1994年くらいで、まだまだ一般的には個人でパソコンを持っている人は少数派の頃だった。あまり新しいものに手を出さない父にしては珍しいことだった。)

祖父

残念ながら、私の祖父は父方も母方も私が産まれるはるか前に亡くなっており、会ったことがない。

特に母方の祖父(松田雄幸)は新宿や赤坂のクラブでピアニストとして活動していた人で、ぜひとも会って話をしてみたかった。交通事故のため、1972年に43歳の若さで亡くなっている。祖母も亡くなった今、残念ながら当時どんなバンドでどんな演奏をしていたのかも全く情報がなく解らない状態だ。(もしも祖父(松田雄幸)知っている人がいたらぜひ連絡を頂きたい)

父方の祖父は戦後の混乱期を日雇い労働で暮らし、最終的には学校の用務員であったと聞く。経験を武器に、竹を縄でくくってフェンス(柵)を組む(編む?)こともできたとか。

叶う事ならば、二人とも会って話をしてみたかったと思う。

母方の祖母

母方の祖母は音大で声楽を学び、祖父や母と共に音楽学校を開いていた。家が近い上、私が小さい頃は母が毎週実家に通ってピアノを教えており、私も同行して隣の部屋で遊んでいた。もう少し大きくなると私は家で留守番をし、逆に祖母が毎週家にきて面倒を見てくれていた。私にとってはもっとも関わりの深い親戚である。

晩年は政治家事務所で手伝いなどしていたが、あまり健康に気を使わない人で、たばこはずっと吸っていたし、自炊せずに外食や店屋物・コンビニ弁当で食事を済ませ(しかも偏食)、水分もあまりとらない生活を続けていた結果ついに体を壊してしまった。入院したはいいものの、入院して体を動かさなくなると今度はボケが進み始めてしまった。

その頃僕はちょうど高校3年の受験シーズンであり、病院には2~3回くらいしかお見舞いに行けなかった。そして忘れもしない、2004年の1月のセンター試験2日目。第一志望の大学には推薦入試で合格したので、いまさらセンター試験を受ける必要はなかったのだが、せっかくお金も払ったし、人生に一度の経験だからということで、たしか数学の試験を受験しに行くつもりでいた。ところがその日の早朝に危篤の連絡が入り、僕は両親を先に病院へ行かせ、亡くなったという連絡を貰ってから妹を連れて病院へ向かった。状況を考えれば、危篤の段階で妹も叩き起こして全員で病院に向かうべきだったのかもしれないが、当時妹はまだ状況を理解していない状況で、それを説明している時間も惜しかったので、とっさに僕は妹共に一度家に残る決断をした。幸い、両親は死に目に間に合った。

僕が到着した時にはすでに死に化粧も終わっていた。生まれて初めて、生命の抜けた人を見て、あぁ、もう祖母と話せないんだと実感した瞬間に、涙がどうしようもなく溢れてきた事を、良く覚えている。どうしてもう一度見舞いに来て、「ぐずぐずするな、しゃっきりしろ!」と怒鳴りつけてやらなかったのか、という大きな後悔と、大学に推薦入学できたおかげで、生前の祖母に合格報告もできた上、センター試験を蹴って病院に駆けつけられた、という安堵が心の中に共存していた。

父方の祖母

父方の祖母は京都に住んでおり、今でも健在だ。背はとても低いが健脚で、身長が高い(しかもそこそこ歩くのが早い)私ですら追いつくのがやっとというペースで歩く。自宅から伏見稲荷*1の本殿を参拝して家に戻ってくる、実に十数キロにも及ぶ道のりを平然と散歩してきてしまう。

80歳を超えてもなお、つい最近まで仕事(労務管理)をしていたが、今はリタイアして悠々自適に暮らしている。家が遠いこともあってなかなか会うことができない。早く会って話をしたい。

小学校(調布市立杉森小学校)時代

大枝泰彰先生(大枝医院)と岡部信彦先生(東京慈恵会医科大学付属 第三医学病院 小児科[当時])

私が小学校2年生、1994年(平成6年)の2月頃。朝目が覚めた瞬間に、自分の身体に異変が起こっていることに気が付いた。40度近い高熱で朦朧とするばかりでなく、ちょっと動かすだけで全身の大関節(顎・首・肩・肘・手首・腰・足の付け根・膝・足首全て)に激痛が走る。布団から身体を起こすことすら困難で、寝たままゆっくり寝がえりをうって横を向き、カブトムシの幼虫のごとく身体を丸めてから少しずつ上体を持ち上げて、どうにか起き上がる始末だった。文字通り這うようにしながら階段を降り(当時、エレベータのない団地の5階に住んでいたので、階段を降りない事には外に出られなかった)すぐに父親の車でかかりつけの大枝先生に診てもらった。インフルではなさそうだし、風邪をこじらせたかもしれませんね、ということで解熱剤など1週間分の薬をもらってその日は帰った。

ところが症状は全く改善せず(解熱剤を飲んでいるのに熱すら下がらなかった)、再度大枝先生に診てもらったところ、「1週間で全く改善しないのはおかしい。紹介状を書くからすぐに大学病院に行きなさい」と言われ、そのまま車で最寄りの大学病院である慈恵第三病院へ向かった。当時はまだ予約制度もなく、待合室でひたすら順番を待つこと数時間、ここで担当をしてくれたのが岡部先生だった。紹介状を読んで診察をし、緊急の血液検査。結果が出るまでさらに1時間か2時間くらい待たされたと思うが、再度診察室に呼ばれて先生に言われたのが「今、すぐ病棟に行って、このまま入院してください」という宣言だった。そう告げられた瞬間、ただならぬ雰囲気に驚いて反射的に泣き出したことを未だにはっきりと記憶している。その時に言われたことは〈関節が痛い=炎症が起こっている⇒炎症と戦うために白血球が大幅に増えている〉はずなのに、血液検査をした結果、私の血液からは「白血球が検出できなかった」。つまり、白血球という最も基本的と言っていい免疫機能が失われている、というものだった。「原因はわかりません。」とも言われた。

毎日大量の血液検査を行い(おかげで注射にすっかり慣れてしまった)、他にもあらゆる検査を行った。最も印象深いのが全身血管造影と骨髄検査。特に骨髄検査は大の大人ですら泣いて苦しむという痛い検査で、ものすごく辛かった。その甲斐あって出された最終診断は「V.A.H.S」と「若年性関節リウマチ」の併発。「V.A.H.S」まだ提唱されたばかりの新しい病気で、日本国内でも報告例が少なく正式な日本名も決まっていない病気であった。治療法が定まっていないので、「抗生物質他、効果のありそうな薬を片っ端から試していきます」という治療方針となった。(ずいぶん後になって両親に聞いたら、いざとなれば最も効果の強いステロイド剤も副作用覚悟で使用するかもしれないと説明を受けて、承諾書も書いていたという)東京都の難病指定を受け、治療費は全額東京都が負担した。

最終的には熱と関節の痛みが引くまで1か月、経過観察でさらに1か月、合計2か月入院することとなった。1か月間は高熱でおかゆを食べる食欲もなく、そもそも顎が痛くて動かせないので飲食が困難な状態。点滴で栄養を維持しつつ、かろうじてカゴメのトマトジュースと宝酒造(当時)のビタミンパーラーだったので、本当は飲食物の持ち込み禁止のところ、許可をもらってそれだけは自分の口から飲んでいた。

退院後は通院を続けながら学校に復帰したが、退院から1年後に再度同様の症状で入院。今度は「若年性関節リウマチ」だけを再発したため、血液検査では白血球の数値が跳ね上がっていた。この時もやはり熱と痛みが引くまで1か月、その後経過観察で2か月の計3か月入院した。退院後も通院と服薬を続け、医師から完治を告げられる2002年(高校2年)の夏まで、8年半も治療にかかった。

「V.A.H.S」はその後研究が進み、「ウィルス関連血球貪食症候群」という和名がついた*2。医学書を見ると、分厚め(専門性高め)の感染症・小児科・内科の教科書には掲載されていて、認知度は高くなっているようである。国内にほとんど情報がなかったであろう当時に、すばやく診断をつけて頂いて治療を行って頂けたのは、自分の診断を過信せず「これはおかしい」とすぐに大学病院へつないで下さった大枝先生と、小児感染症の権威である岡部先生に出会えたお陰だと思っています。

なお、大枝先生は2020年現在でも調布市で「大枝医院」を運営しています。私は調布を離れてしまいましたが、実家は未だにかかりつけ医としてお世話になっています。岡部先生は私の診断をした数年後に国立感染症研究所情報センターに移られ、室長・センター長を務めた後、現在は川崎市健康安全研究所所長として活躍されています。感染症に関するトラブルが発生するたびにマスコミや講演会を通じて医学情報を発信されています。

*1千本鳥居が有名な神社 http://inari.jp/

*2参考 津田弘之「1.ウィルス関連血球貪食症候群」(『ウィルス』第52巻第2号,pp.33-238,2012) http://jsv.umin.jp/journal/v52-2pdf/virus52-2_233-238.pdf


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