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TapDance

タップダンス

2023年の7月から、タップダンスを習い始めました。

タップダンスについて調べた事をまとめていきます。

タップダンスの歴史

タップダンスの始まり

タップダンスはアメリカを中心に普及したと思われているが、そのルーツはアイルランドの伝統舞踊「ジグ」にある。ジグは木靴を履いてリズムに合わせて靴と床を打ち鳴らし、リズムを取りながら踊る。

1600年代にカリブ海で奴隷にされた西アフリカ人とアイルランドの年季奉公人が混ざり合い、1700年代のアメリカ南部でアイルランド系アメリカ人労働者とアフリカ系アメリカ人民族が交わっていった。この時はアイルランドの言葉がそのままアメリカに伝わり「ジギング」という名前で黒人文化として定着していった。

1900年代に入り、ジャズが確立していく中で黒人文化のジギングがタップ・ダンスに変化していく。ミュージカルや映画などのショー・ビジネスの中に組み込まれて発展普及していった。

日本におけるタップダンス

タップダンスの初来日

日本に初めてタップダンスが紹介された時期ははっきりしていない。Brian Seibertはペリー提督の乗った黒船来航(1853年)が最初だったのではと指摘している。公式記録にダンスに関する記述はないものの、ペリー一行は日本の派遣団を帆船のバンケットに招待しており、そこには蒸気フリゲート艦ポーハタン号に乗っていた船乗りがミンストレルショー(白人が黒塗りにして黒人をまねて行う歌やダンスのショー)をしていたことがわかる日本のスケッチが残っている。またその後日本の港で開催されたエチオピア・コンサートのチラシにはパ・ド・ドゥ(2人組のダンス)の広告が掲載されており、黒人文化の紹介が行われたことが推測される。

関東大震災を乗り越え、日本での普及

その後70年ほど、日本におけるタップダンスの記録は残されておらず、次に記録があるのは1922(大正11)年、評論家の榛名静夫が、上野公園で開かれた平和博覧会において、アーチ・グランドという黒人バンドのピアニストがタップダンスを披露した事を記録している。 その後も1933(昭和8)年「ナイン・オクロック・レビュー団」、1934(昭和9)年「マーカス・ショー」、1935(昭和10)年「パンテージ・ショー」、1936(昭和11)年「パラマウント・ショー」のようなアメリカから来たショー劇団が日本でも好評を博している。

日本人によるタップダンスの公演が記録されているのは1928(昭和3)年。大阪道頓堀の松竹座で、映画の合間に『河合ダンス・バレエ団』という一座がタップダンスの舞台を披露している。ただし実態は大阪ミナミのお金持ち河合幸七郎が芸者をアメリカに連れて行き、ボードヴィルを見よう見まねで真似させたものらしい。1930(昭和5)年には宝塚少女歌劇が『パリゼット』の中でタップダンスを試みている。これは演出の白井鉄造がパリで見たレビューをまねたものらしい。松竹歌劇は1932(昭和7)年『第3回東京をどり』1933(昭和8)年『タンゴ・ローザ』でタップを披露している。

ハワイ生まれロサンゼルス育ちの川畑文子アリスは、立ったまま足を首に巻き付ける特技で有名なダンサー・歌手で、タップダンスも得意としていた。日本ではモダン・ガール/モダン・ボーイの象徴として人気となり、1933(昭和8)年東京の日劇(日本劇場)のこけら落とし公演で脚本・振付・主演を務め、他にも数多くの舞台に立ったが、1939年までに結婚し引退した。

日本発 のタップダンス

本格的なタップダンストレーニングを日本に持ち込んだのはジョージ堀(堀常次郎)である。松竹歌劇団がアメリカでタップダンスに取り組んでいた堀に目を付けてスカウトし、1932(昭和7)に日本で初めての本格的タップダンススタジオを設立、後続の育成に努めた。タップシューズが不足しており、下駄に釘を打ってタップを踏むものもいたという。

ジョージ堀の門下生でいち早く有名になったのは中川三郎である。ジョニー水保の名前で松竹系映画館で踊るもこの時は芽が出ず、1933(昭和8)年に17歳で渡米、フレッド・アステアを目指して鍛錬に励み成功を収め、その情報は報道を通じて日本にまで届いていた。1935(昭和10)年に帰国するやいなや、帰国記事が新聞に載り、1936(昭和11)年3月の公演にはスポンサーがつき満員御礼となった。どちらかというと当時「色物」として扱われていたタップダンスに、エレガント・スマートなスタイルのタップダンスを披露する(ショーのタイトルも「ソフィスティケート」、すなわち「洗練された、上品な、都会的な、大人的な、趣味のよい」であった)。1936(昭和11)年から翌年にかけて吉本興業と1年間契約し浅草花月劇場にレギュラー出演、その後中川ハタアズという劇団を旗揚げして活動を始めた。

しかし1941(昭和16)年の真珠湾攻撃から第二次世界大戦が始まると、アメリカ由来のタップダンスも当然ながら禁制となる。中川三郎がタップダンスの練習をしているとタップの音がモールス信号と疑われスパイ扱いされることもあった。そのため「踏律舞踊」と名を変えて、リズム体操の一種であり強い兵士を作るために役立つ、と主張したり、シャッフルを「#1」フラップを「#2」ボールを「妻」、ヒールを「夫」と専門用語を符丁に変えて取り組んでいた。

戦後のタップダンス

1945(昭和20)年、終戦後の10月に中川三郎はダンスホールを建設したが、世間の日本人は食べて生きることに精一杯でダンスホールとは無縁の存在であり客はGHQ将校ばかりであった。1955(昭和30)年、中川三郎は全日本職業舞踊家協会を設立し、初代会長となる。1958(昭和33)年、中川三郎スタジオ設立。社交ダンス初のスタジオネットワークを始める。以後中川はタップダンスを離れ、社交ダンスの普及と、レコード会社とのタイアップでニュー・リズムと称する世界中の音楽スタイル・ダンススタイル(カリプソ、ツイスト 、タムレ、サーフィン、ジェンカ…etc.)を日本に紹介して普及させるようになる。1965(昭和40)年、恵比寿 (渋谷区)に日本初のディスコといわれる「中川三郎ディスコティック」を開業させる。

さらに戦後は「(タップ)ダンスがショーのメイン」ではなく、「歌手のバックでダンサーが躍る」というスタイルが主流となっていった。戦後の日本人タップダンサーで、ラスベガスでも公演を行うなど世界的に活躍した中野ブラザーズ(中野啓介[1935年3月21日 - 2010年8月10日]・中野章三[1937年2月8日 - ])ですら、日本国内では江利チエミのバックダンサーとしてツアーを回り生活していた。

参考資料

tap dance dictionary
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nbxworld/SF_tap%20dance%20dictionary.html
Margaret Miller「American Tap Dance History and Proposed Preservation」
https://digitalcommons.pace.edu/honorscollege_theses/186/
冨田 かおる「新装版 パーフェクトタップダンシング」
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Brian Seibert「What the eye hears : a history of tap dancing」
https://amzn.to/3sa9vnp
細川 周平「近代日本の音楽百年 第4巻 黒船から終戦まで ( ジャズの時代 ) 」
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ボナヴェントゥーラ・ルペルティ「 日本の舞台芸術における身体 死と生、人形と人工体 」
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「タップダンスの歴史の始まりはいつから?実際に起用された映画も紹介!」
https://www.jydf.jp/post/tapdance
「タップダンスの特徴とは!?歴史やシューズ、ステップなど徹底解説。おすすめ動画もご紹介!」
https://dews365.com/archives/169013.html

現在ご覧のページの最終更新日時は2023/11/07 15:21:56です。

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