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Dear_sankei

産経抄を読んで

2015/2/7の産経新聞に掲載されたコラム「産経抄」に、ジャーナリストの後藤健二さんがISIS(記事中では「イスラム国」)に拘束され、身代金を要求された挙句に殺害されたという痛ましい事件を受けて、改憲を主張するコラムが掲載された。このコラムの反響は大きく、そのあまりにもひどい論理主張に、ネット上では非難の嵐が吹き荒れた。かくいう私も、これを読んで非常にムカムカした気持ちになった一人である。

以下に全文を引用する。

 わがことながら日本人は、敗戦から70年という歳月をかけて本当に優しくなった。「イスラム国」という名のならず者集団に空軍パイロットが焼き殺されたヨルダンはさっそく報復爆撃を始め、指揮官を含む55人以上を殺戮した
 ヨルダンでは、「なぜ二人も殺された日本がともに戦わないのか」という声が高まっているという。日本には憲法の制約があって云々、と説明してもまず理解されぬだろう。
 憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。後藤健二さん自身も数年前、「憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。ーそう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」とつぶやいている
 だからといって処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうしていえようか。助けに行った湯川遥菜さんが斬首されたときの写真を持たされ、家族に脅迫メールを送られ、心ならずも犯人側のメッセージを何度も読まされた後藤さんの心境は想像を絶する
 仇をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。第一、「日本にとって悪夢の始まりだ」と脅すならず者集団を放っておけば、第二、第三の後藤さんが明日にも出てこよう。
 日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。護憲信者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。

この記事を書いた記者に、そしてこの掲載を許した産経新聞に(署名記事でない以上、その内容の責任は社が取る覚悟と考えて良いだろう)どうしても、以下のように言い返したい。

 わがことながら日本人は、敗戦から70年という歳月をかけて本当に優しくなった。「産経抄」という名のコラムにひどい言葉を書き立てられたことに気づいた人々はさっそく反対の声を上げ始め、多くの賛同を得ているが、新聞社に火炎瓶が投げ込まれたという話は聞いていない。
 ネットでは、「なぜこのような妄言が許されるのか」という声が高まっているという。日本には表現の自由があって云々、と説明しても到底納得されぬだろう。
 暴力の連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。同コラムでは「処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうしていえようか」と記している
 処刑直前に後藤健二さんが心変わりした、とどうしていえようか。だいたい、その舌の根も乾かぬうちに「…後藤さんの心境は想像を絶する」と続けている。「想像を絶している」のに、後藤さんの心境を一方的に決めつけ、後藤氏のポリシーをねじ曲げる神経は、理解に苦しむ。
 「仇をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。」ならば、「命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。」と公言する報道機関を放っておけば、第二、第三の戦争が明日にも出てこよう。
 日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。ヨルダンのみならず、平和を享受できず苦しむ諸国民がいかに多いことか。この一点だけでも現行憲法が、崇高で、成し難い、高い目標をあえて掲げた決意表明であることがよくわかる。改憲論者のみなさんは、テロリストに「ちょっと一戦交えましょうか」と自ら先頭に立って言えるのだろうか。報復を盾に、世界に誇る平和憲法を自らの手で葬ろうとする憲法なんて、いらない。

(この記事は2015/2/13に掲載したもので、その後の状況変化は反映されていません。)


現在ご覧のページの最終更新日時は2015/03/15 00:33:30です。

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