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ABC_of_Improvisation

即興演奏のABC

神保町視聴室にて行われた「美学校 presents 即興演奏のABC」(2015/04/12、【レクチャー】講師:大谷能生、【ワークショップ】講師:横川理彦、主催:美学校・ギグメンタ実行委員会)に参加してきました。大変勉強になるレクチャーでしたので、許可を得てその記録メモを公開します。

テープお越しでなく、あくまでも自筆のメモを清書したものですので、書きもらしや誤りが含まれる可能性があります。また独自に内容を要約していたり、清書にあたって話の順番を入れ替えて整理していることをご了承ください。

現代における「即興」

現在、「即興」(演奏)と呼ばれるものには、大きく分けて出自の違う3つの物が混ざっている。

  • (1)近代的価値の否定的乗り越えとしての「即興」演奏
  • (2)ヒトそれぞれが持つ原始的な(非理性的な)即興
  • (3)(レコード・録音物の)再生と聞き取り

以後、大きくこの3つの分類に沿って説明する。(実際の講義ではこの定義の説明は中盤に行われた。しかしあらかじめ示しておいた方が分かりやすいし、先生自身も「先に説明しておくべきだった」と言っていたので先に提示する。

(1)近代的価値の否定的乗り越えとしての「即興」演奏

即興演奏

20世紀の初期~中期(1950-1970頃)にかけては、即興演奏していること「自体」が1つの価値であった。

⇒その前の世代(ヨーロッパ19世紀的音楽観)に対するアンチテーゼとして働いていた。
…ここでいうヨーロッパ19世紀的音楽観とはたとえば楽典・対位法など。20世紀を過ぎてもなお引きずっている。

19世紀(1800-1900)的音楽観=近代/モダン/モデルニテ(近代性)

「芸術(Art)作品、Kunstwerk(独)」に対し、「作品とはこうあるべきだ」という強い価値観(圧力)が成立していた。

この時代は、「市民社会」→「国民国家」→「植民地支配」と、社会構造が大きく変化する時代。この社会構造変化を反映した芸術が求められた。特に音楽作品(≒クラシック音楽)では早くからその影響が強く、強近代性を求められたまま、今でもなおその影響が続いている。

(近代的)芸術作品に求められた強近代性 = モダニズム
  • 自律性
    • プレーヤーや聞き手、場所(空間)に依存せず価値を保つ。
  • 自己同一性(永続性)
    • いついかなる時も「感動できる」ことを保証する。
  • 純粋性
    • 要素に分解できる。
  • 科学性(普遍性)
    • 宗教や感性の否定、乗り越え。
音楽におけるモダニズムの要素
  • 平均律
    • 1オクターブ(周波数の2倍)を正確に12等分(周波数2の12乗根倍)したものを「半音」とする。
  • 機能和声
    • 当時としては相当に科学的な考え方と思われていた。

この2つが音楽の基礎単位とされたのが17世紀ごろ。

さらに、楽譜の発明発展により、「記譜」が可能となった。

これにより

  • (音楽が)「音」から離脱。
  • 自律性・自己同一性が確立。
記譜が可能となり、「テクストとして読み書きできる音楽」が成立し、
「譜面こそ音楽」という状況となった。
交響曲
  • 譜面(=音楽)を読み書きする
  • 音楽の分業化・専門家
    • 作曲・演奏…といった分業だけでなく、作り手/受けての分離も含む。
  • 再現可能

といった

「音楽の近代的価値」その象徴が「交響曲」
⇒19世紀近代的価値、国家・社会システムのありようを体現している。
…この価値観が20世紀に入ってから綻んでくる

第一次世界大戦(1920年代)

「近代の内側」から「批判的な乗り越え」が生じる

音楽ではこの変化は出にくかった。芸術の中で早くに出現したのは文学や絵画。

参考:絵画における「近代の乗り越え」
  • 近代以前=主に宗教画(=「何をテーマにしているか」が重要)
  • 近代
    • リアリズム(=「何が描かれているか」が重要)
    • 印象派(=「作者がどう感じたか」が重要)
    • キュビズム(〃)
  • 現代
    • コンセプチュアル・アート(=「受け手がどう感じるか」が重要)
    • イベント(作品の物質化をやめる)
    • ハプニングス(〃)

コンセプチュアル・アートによって近代価値の乗り越えが試みられる
Ex.マルセル・デュシャン(1920-1940年頃)
↓ アクションペインティング(抽象絵画)
Ex.ジャクソン・ポロック(1950年頃)
↓ シュルレアリスム

コンセプチュアル・アート/アクションペインティング/シュルレアリスム が現代絵画の三大要素

コンセプチュアル+アクションペインティング=「イベント」

コンセプチュアル+シュルレアリスム=「ポップ・アート」

音楽における近代の破壊…ジョン・ケージ

ジョン・ケージの特徴は「譜面は使う」
⇒即興演奏ではない

(演奏の)結果として何かを聞く⇒コンセプチュアル+アクション性を持つ。

(2)ヒトそれぞれが持つ原始的な(非理性的な)即興

いつでも生まれ、すぐ消えるもの。あるいは芸能・ゲーム・あそびとしての即興。

モダン・ジャズを例とする。

ジャズの源流としてのアメリカン・ブラック・ミュージック

20世紀のアメリカ都市部では、ポップスとしてアフロ・アメリカンによるアメリカン・ブラック・ミュージックが色濃く残っていたという特殊な事情がある。

参考:Charley Patton「Dry Well Blues(1929)」
(録音記録された)最初期のブルース

歌詞があり、タイトルもあり、一応再現はできる構造になっているが、その場のノリで少しずつ変化していく。(繰り返されるうちにパターン化はしてくる)。
⇒芸能・遊びとしての即興

途中で合いの手や掛け声が入る→これは後の「ラップ」や「ヒップホップ」に接続される要素。

ブルースからビバップ

ジャズ・ミュージックは南アメリカから広がっていったため、ラテンの要素がベースに多く入っている。

今回は「ポップスとしてのジャズ」はひとまず割愛して、「モダン・ジャズ」のみに注目する。

参考:Charles Parker Jr,「Relaxing at camarillo(1949)」

ドレミファを使った高度なあそびを進化させている=Be-Bop(ビバップ)

ブルースフォームが反復しているという音楽構造は、先のDry Well Bluesと同じ。機能和声というツールをブルースフォームという型の中に突っ込んでくることで、色々な人が様々な楽器でハプニングを起こしながら入り込んでくる。
⇒ブラック・アメリカンしかできなかったブルースがある程度のお勉強(機能和声の)を積むことで出来るようになった。

ポップス(コーラス/ダンス付音楽)から、モダン(近代的)な音楽として再評価されるようになる。

モダン・ジャズの進化

1960年代ごろになると、プレイヤーが共通で決めていた「テーマ」を捨てて、コード進行もどんどんそぎ落としていって、より制約の少ない、自由な中で演奏を成立させる試みが進んでいく。(ジョン・コルトレーンなど)

ジョン・ケージは「いかに自分を消すか」と即興に求めた((1)の即興)。一方チャーリー・パーカーやコルトレーンは「いかに自由な場で自分を出すか」((2)の即興)という志向の大きな違いがある。これらは同じ「即興」という言葉でくくられてしまうが、実際には別のもので、同時には成立しない(しにくい)。

ジョン・コルトレーンらが演奏する「My Favorite Things」は時代を経ていくにつれ複雑に進化し、演奏時間がどんどん伸びている。

コルトレーンの後期になると、「良く解った上で難しいことをやっている人」と「よく解らないまま自分の事をやっている人」が混ざって演奏しており、そのことで却って音楽の強度が上がり、コシが出てきている。

このようにモダンジャズが成熟するにつれ、ポップスから離脱していくようになる。

さらに時代を進むと、即興「のみ」を追求し、「自分なり」のジャズを追求し、フリー・ジャズへと向かう。

フリー・ジャズ

Derek Bailey「Solo Guitar Volume 1」(1970年代)

1回も時間をループしない音楽構造であり、ブラック・ミュージック的な律動を用いず、マテリアルなサウンドになっている。
⇒音楽の「共有」が不可能になる。

ベイリーのインプロビゼーションは「1個人1音楽」。音楽の再現性はない…といいつつ、他作品の引用は存在する。一瞬、適当に音を鳴らしているように聞こえるかもしれないが、決して適当ではなく、次の音をきちんとコント―ロールして演奏している。

Company

後にデレク・ベイリーはCompanyというプロジェクトを立ち上げる。「楽器を持って、自分の演奏を確立さえしていれば、どんな人ともセッションできる」と考え、ジャンルにとらわれずただともに演奏する。
⇒「ノン・イディオマティック」と言った。

イディオムとは「ジャンルを確立するコア」であり、「ノン・イディオマティック」ではそのコアを取り去ってしまう。

ただそのデレク・ベイリーも、個人の「演奏家」、すなわち「トレーニングを受けた一専門家」であって、その意味では19世紀近代的な存在から脱出できていない。

(3)(レコード・録音物の)再生と聞き取り

ある種の「ひとりあそび」。メディア技術が発達し、音楽の「再生・聴取」が可能になった。音楽の再生や聴き取りには音楽的なトレーニングは不要である。しかし、ある楽曲を聞いたときに需要者が何のイメージと結びつけて聴くかは人それぞれ違う。
音楽を次々並べて、受容者が自由に選んで聴く=ある種のDJ的な考え方。

現代音楽を考える上では無視できない視点だが、ここの考察はまだ深められていない。

「演奏」から離れて「非演奏」を志向する考え方を、大きなくくりとして「ノイズ」と呼ぶ。「ノイズ」は「ただ自分(受容者)の耳にどう聞こえるか」を重視する。まさに(3)の意味での即興と言える。

質疑

ミュージック・コンクレートとの関係

ミュージック・コンクレートは、録音された音の断片をパッチワークして作曲する手法で、「メディア・アート」でありかつ「クラシック」の流れにおかれる。デレク・ベイリーの演奏は「(メディアアートである) ミュージック・コンクレートを、あえて生演奏で再現してしまおうと試みたものと言える。

アドリブ(ad-lib)とインプイロヴィゼーション(Improvisation)の違い

あまり大きな違いはないが、アドリブが「空気雰囲気を読んで適当に」というニュアンスなのに対し、インプイロヴィゼーションはもっと積極的に作り込んでいったもの…と言うイメージ。

以上


現在ご覧のページの最終更新日時は2015/04/20 21:13:14です。

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