「ライトノベルとはなんだろうか」

- はじめに -

アニメやマンガなど、いわゆるオタク文化と呼ばれるサブカルチャーが注目されて久しい。
しかし、現代のサブカルチャーを形作る柱の一つであるライトノベルに関しては
近現代文学を専門とする学識者においても研究の対象とはなっておらず、ようやく最近になって
ライトノベルが研究対象になってきたという。

オタク文化評論の中でも、アニメやマンガ、ゲームの評論に押されてライトノベルに関する
研究書はあまり出ていない。その数少ない本の中でも新しい本に、
『ライトノベル「超」入門』 (新城カズマ著、ソフトバンク新書)がある。
ライトノベルの歴史やその特徴について一通りの調査考察がなされ、とても興味深い
記述がいくつも見受けられる。

ここでは、『ライトノベル「超」入門』(以下『ライトノベル入門』と呼ぶ)に示された内容を踏まえた上で
ライトノベルの特徴を探り、自分なりの答えを見つけたいと思う。

- そもそも、小説とはなんだろうか。 -

ライトノベルは小説の一種である。これには異論の余地はないだろう。
小説の定義は、広辞苑によると
文学の一形式。散文体の文学で、一八世紀以後、近代市民社会の生活・道徳・思想を背景に完成した。
作者が自由な方法とスタイルで、不特定多数の読者を対象に人間や社会を描く様式。
〔坪内逍遥が「小説神髄」で novel の訳語として用いた〕
とある。これはライトノベルにも、ライトノベルでない小説(以下非ライトノベル作品と呼ぶ)にも
当てはまる定義である。 『ライトノベル入門』の中では、、ライトノベルという呼称が定着する経緯を語る上で、
"蔑称とされてはいたものの、ライトノベルの本質を突いた表現"として、
「字マンガ」という表現があったと記している。
「字マンガ」に関する記述は『ライトノベル入門』にしばしば登場し、
作者がこの表現を重要と考えていることが読み取れる。

「字マンガ」の呼称は、「字で記されたマンガ」という意味であり、
さらには「小説化されたマンガ」とも言えよう。マンガにはマンガの文法(独特の表現様式)
があるが、それを小説の世界へ持ち込み作られたものが、今で言うところのライトノベルである
という考えが、この呼称から汲み取れる。

では、マンガの文法とは、そしてそれを小説の世界に持ち込むとはどういうことなのだろうか。

- 小説からマンガへの翻訳 -

近代マンガの様式が固まったのは、手塚マンガを中心とする戦後から、とされる。
トーキー映画などの影響で、キャラクターという概念と、ストーリーという概念が
マンガの世界に持ち込まれ、風刺画という美術領域の一つに留まっていたマンガが、
ストーリーを持った作品様式の一つとして昭和初期付近から独立し始め、
ぽつぽつと点在したそれらの傾向を一挙に体系立ててマンガという分野を確立したのが
手塚である。戦中から始まった手塚マンガは戦後大きく発展し、
近代のマンガの様式が出来上がったのである。

小説も、マンガも、あるストーリーを持った作品様式という点では共通している。
しかし国内における歴史の長さで言えば、小説は18世紀以後、日本に広まったと言われ、
小説の方が断然歴史は長い。おまけに、一方は文学、一方は美術から派生した表現様式であり、
小説とマンガは、どちらかといえば対極的と言えるほど、かけ離れた様式に見える。

それにもかかわらず、ライトノベルが小説とマンガの混成体、すなわち「小説化されたマンガ」であるとするならば、
実は小説とマンガというのはとても近い関係であるのだろうか?
もし近い関係であるとするならば、マンガと小説というのは相互に変換可能な表現様式なのだろうか?
仮にこれらが相互に変換可能な存在であるとするならば、「マンガ化された小説」という
様式が生まれることは難しくない。

それを検証するために、まずは非ライトノベル作品がマンガ化された例を検証し、
その文法の違いを確かめてみる。

比較の例として、ここでは「モーツァルトは子守唄を歌わない」(原作:森雅裕 講談社 以下原作版と表記)
と、そのマンガ版「モーツァルトは子守唄を歌わない」(著:有栖川るい ステンシル・コミックス 以下マンガ版と表記)
を比較してみよう。
原作版は第31回江戸川乱歩賞を受賞した、れっきとした推理小説であり、まず間違いなく
ライトノベルを意識して作られた作品ではない。
小説をマンガ化するにあたり、ストーリーやキャラクターが変わってしまう例は多いが、
本作のマンガ版は原作のストーリーをほぼ忠実にマンガ化しており、比較には最適と思われる。
原作版の一部を以下に引用する。

 ケルントナー門から市内に入り、宮廷歌劇場の前まで来た時だった。
 私のほうへ顔を向けかけたツェルニーは、あわてて飛び上がった。
道路掃除をしていたおばさん連中が、我々めがけて、バケツの水をぶちまけたのである。
 掃除婦に一番近かったシレーネが、腰から下に直撃を受けた。
「何するのよ!」
「あら。御免なさい。掃除に夢中で、気がつかなかったわ」
 平気な顔で謝られて、シレーネは納得する娘じゃない。スカートから雫を垂らしながら、怒気を
発散したが、ツェルニーが腕をつかんで、引っ張った。
「往来で喧嘩なんて、上品な娘のすることじゃないぜ」
「何なのよ、あのおばさんたちは!?」
「風紀取締りで逮捕された売春婦なんだ。街路掃除が罰則なのさ」
 こういうことなら、ツェルニーはくわしい。
「通行人をからかって、掃き集めた埃や泥をひっかけたりするんで、評判が悪いんだよ」
「泥水かぶったこんな姿で歩いてられないわ。私、うちへ帰る。聖物座へは、あなたたちだけで行ってよ」
 思い切り愛想なく、彼女は背を向け、早足で歩き出した。手もあげず、振り返りもしなかった。
(原作 p.87 L.12 〜 p.88 L.8)
次に、このシーンが、マンガ版でどう描かれているか引用しよう。

Fig.1,2マンガ版 vol.2 p.25〜p.28
原作に書かれたシーンを、マンガ版がほぼ忠実に再現していることがわかる。
どこをどのように再現しているのか、もう少し詳しく調べてみることにする。

そこで、先に引用した原作版の文章を、それが与える情報の種類によって以下のように分類してみる。

  1. 【台詞】
  2. 【行動】(誰かの行動とその様子(目に見えるもの))
  3. 【心情】
  4. 【設定】((目に見えない)事実、設定など)
これら4分類された記述は、マンガ版でどのように表現されているだろうか。

【台詞】に関しては、小説においては一般にカギ括弧付きの文章で表し、
マンガでは吹き出しの中に書くことで表現する。これらはいずれにおいても
同じ文字表現であるから、小説からマンガに翻訳するにあたって意図的に
改変、削除しない限り台詞が持つ情報量が欠落することはない。

【行動】に関しては、表現形式の変換を求められる。小説において文章で表現されている
ものを、マンガでは絵で表現しなくてはならない。例えば、
「思い切り愛想なく、彼女は背を向け、早足で歩き出した。手もあげず、振り返りもしなかった。」
という部分は、マンガ版においては278ページの3コマ目で表現されている。
マンガで表現するにあたって動きは十分に記号化されていて、
このコマだけを眺める限りでは、「愛想がない」とか「早足」という情報は欠落している。
欠落した情報は前後の文脈や後述する漫符によって補われているが、それでも
小説からマンガに翻訳するにあたって情報量がある程度欠落するのは避けられないだろう。

【心情】に関しては、目に見えない情報である。単に表情を詳細に書き込んだところで、
それで作者が意図した感情表現が確実に読者へ伝わるとは考えにくい。
いわば、「読者の主観に頼る表現」をせざるを得ないと言えよう。
考えている事をコマ内に直接記述したり、雲形の吹き出しに入れる事で【台詞】に準じた
表現をすることもあるが、もっと広く用いられる重要な手法として「漫符」が考案され、
利用されている。漫符は感情を確実かつ簡便に表現するマンガ独自の文法である。
やや脱線するが、重要な概念なので、ここで少し掘り下げておく。

漫符とは『マンガの読み方』(1995年 別冊宝島EX)という本で竹熊健太郎氏が提唱した概念である。
複雑な感情を簡略化し、デフォルメした上でそれを記号化することで、確実かつ簡便に
キャラクターの感情を表現する手法である。表情の変化に加えてこの漫符を利用することで、
微妙な感情も客観的に読者に伝えることができる。Fig.3に描かれたイラストのうち、
左側3つの表情その他は全く変化していない。しかしそこに、たった一つの漫符を加えることで
読者が認識する感情は変化する。

Fig.3 漫符の例(イラスト提供: フリー素材の人物イラスト屋さん)

すなわち漫符は感情を類型化し、それぞれにラベリングを施した、システマチックな感情表現手法である。
吹き出しの形も、漫符としての役割を担う。先の原作の引用で「怒気を発散した」という表現は
マンガ版においては25ページの4コマ目〜26ページ3コマ目までで表現され、尖った吹き出しの
形が怒りを示す漫符の役割を果たしている。

しかし、漫符の表現にも限界がある。文学作品でしばしば書かれるような、
複雑きわまりない心情を、漫符で表す事は難しい。
これはすなわち、漫符というツールをもってしてもなおマンガが苦手とする表現
と言えるだろう。

ここで話を元に戻し、最後の項目【設定】を検討する。
【設定】は【心情】と同じく目に見えない情報であるが、マンガで表現するのに一番厄介な代物であろう。
心情表現と同じように類型化、ラベリングしようにも、読者に伝えるべき設定は個々の作品によって
全く異なる。そのため、【設定】に関わる文をマンガに翻訳する場合は、残る【台詞】【行動】【感情】
の3つに表現を転化して表現し、不必要な設定は無視するしかない。

「ケルントナー門から市内に入り、宮廷歌劇場の前まで来た時だった。」という表現は
マンガ版では欠落している。背景という形で表現されている、と考えることもできるが、
「ケルントナー門」「宮廷歌劇場」といった固有名詞の表現が見受けられない点から見て、
マンガへの翻訳に際してこの部分は無視されたと考えるのが自然だろう。

「平気な顔で謝られて、シレーネは納得する娘じゃない。」という表現は
泥水をかけた娼婦に謝られても全く納得しない、という【行動】に置き換えられて
表現されている。

「こういうことなら、ツェルニーはくわしい。」という表現は
「こういうことならチェルニーの十八番だ。」(27ページ5コマ目)という台詞に置き換わっている。

この、台詞に置き換えるという手法は、文字表現を文字表現のままマンガに持ち込めるため、
大変便利な手法であるが、使い方を間違えると非常に「説明的な台詞」が出来上がってしまい、
好ましくない。これを逆手にとり、ギャグマンガ等であえてあからさまな「説明的台詞」を
使う事で、(ある意味)自虐的でシニカルなギャグとすることもある。

従って、【設定】の表現は、マンガ表現が苦手とする部分であることがわかる。
以上について、小説と漫画間の表現の関係を表1に示す。

Table.1 小説と漫画の表現
小説の表現変換方法漫画の表現変換精度
台詞文字表現
そのまま
文字表現 ◎完全
行動
絵に変換
絵表現
心情
絵や記号に変換
絵表現
漫符表現
設定×表現不可
→他の表現に変換
×不完全
マンガは風景画ではない。マンガや小説はストーリーを持つ。
ストーリーを伝えるためには登場人物や場所、時間などの情報、すなわち作者の意図する設定を
読者に伝える事が必須である。マンガという表現が発達するにあたって、
この苦手分野はどのように解決されたのだろうか。

- マンガ表現の限界 -

登場人物なくして、ストーリーは進まない。従って、登場人物の【設定】を伝えなければ
ストーリーは進まない。いかにして登場人物の設定を読者に伝えるか。
そこで考えられたのが、感情表現に漫符が登場したのと同じように、
登場人物を類型化する方法であり、これが「キャラクター」である。

アメコミのストーリーパターンはわかりやすい。悪がいて、善がいる。
どちらが主人公でもかまわないが、悪が善に勝つことはない。
これはスーパーマンもバットマンもポパイも同じ。日本人からするとあまりにもありふれていて
見え透いた展開のようにも見えるが、ハリウッド映画にもその影響は色濃く出ていて、
(少なくともアメリカ人には)これが当たり前のようだ。

善と悪の対立。これは最も単純な「キャラクター」である。若くて健康的な肉体を持つ
ヒーロー(善)が、暗く陰湿な悪に立ち向かい、勝利する。登場人物が類型化され、
そのイメージを読者が共有しているからこそ、最小限の情報量で、ヒーローと悪という
キャラクター設定を読者に伝えることができる。

登場人物を類型化する、という手法は手塚治虫もさかんに利用している。
ヒョウタンツギ(コマの中に無意味に登場するツギハギの茸)
やスパイダー(同じく無意味に登場するキャラで、「オムカエデゴンス」の台詞で有名)
は手塚作品の端々に登場してくるし、別々の作品にまったく同じ顔のキャラが出てくることも多い。
ヒゲオヤジなどはその好例である。そして、顔が同じキャラクターは、たとえ名前等の設定
が違っても、必ず同じような性格のキャラクターとなっている。
顔と性格を関連付けて類型化することで、読者は顔と性格の関連付けを一度行うだけで、
その後は違う作品であっても、同じ顔のキャラは同じ性格とすぐに理解することができ、
最小限の労力で登場人物のキャラクター像をつかめるようになる。

手塚はこれを、ハリウッド映画の用語を流用して「スターシステム」と呼んだ。
すなわち登場人物を映画の俳優とみなし、俳優がいろいろな役を演じるように
キャラクターがいろいろな役を演じてマンガを作る、という発想である。
この手法は手塚が始めてマンガに採用し、後進のマンガ家に大きな影響を与えた。

登場人物の類型化の例をもう一つ見てみると、例えば藤子・F・不二雄の
『ドラえもん』と『キテレツ大百科』のキャラクター配置はほとんど同じである。
キテレツは秀才型、のび太は劣等生型という主人公の違いはみられるものの、
その周りに登場する主なキャラクターは次のようになる。

Table.2 ドラえもんとキテレツ大百科の主要キャラクター比較
ドラえもん立場キテレツ大百科
のび太主人公キテレツ
ドラえもん主人公と共にいる機械コロ助
ジャイアンガキ大将ブタゴリラ
スネ夫ガキ大将の腰巾着トンガリ
静香ちゃん紅一点のヒロインみよちゃん

ここで注意しなくてはならないのは、この段階では、類型化されたキャラクターの
設定の統一性は、その作者の作品の中に限られているということである。
例えばスーツに身を包み、頭にロウソクの立つ手塚のキャラクター、
アセチレン・ランプは手塚の作品の中では必ず悪役であるが、
たとえ他者の作品で似たような人物が登場したとしても、
その設定は手塚作品の中でしか通用しない。

Fig.4アセチレン・ランプ(http://ja-f.tezuka.co.jp/studio/character/c011/c011.html#)

【設定】を伝えにくいというマンガが抱える必然的な欠点を克服するために
考案された「人物の類型化」すなわち「キャラクター」の概念は、現在も当然のように
利用されている。

しかし、手塚作品において用いられていた「キャラクター」と、現代の「キャラクター」には
決定的に違うところがある。それは「類型化されたキャラクター分類」があらゆる作者で 共有されているということである。

この類型に与えられたラベルは「属性」と呼ばれる事もある。こと、その目的が
「萌え」に剥いている場合、特に「萌え属性」と呼ぶこともある。
属性は多岐にわたり、その全てを網羅して解説することは不可能といわざるを得ない。
そこで前掲の『ライトノベル入門』p.139〜p.155に従い、表3の例を挙げる。

Table.3 主な属性とその簡単な解説
類型名解説
メガネっ娘(こ)メガネをかけた女の子。
主人公(あるいは第1人称から見た)妹。広義には義妹も含む。
委員長 文字通り、委員長。「勉強ができて頭がいい」「真面目」「メガネ」
などのイメージを暗に含む。
巨乳 大きな乳房、またそれを有する女性。(対義語:貧乳)
成熟した女性、年上などのイメージが連想されることもある。
貧乳 小さな乳房、またそれを有する女性。(対義語:巨乳)
未熟な女性、年下、ロリなどのイメージが連想されることもある。
特にロリのイメージを同時に持つ場合、「つるぺた」や「洗濯板」といった
表現がとられることもままある。
戦闘美少女 何らかの戦闘に直接加担する女性。
少女と言いつつ、成熟した女性が描かれることも多い。
人造少女 人工的な手法により作られた女性。マンガとピグマリオン・コンプレックス(人形愛好)
の関係については拙稿「アニメオタクは電気羊の夢を見るか」でも言及している。
ポニーテール 長髪を後頭部やや高いところで一つにまとめた髪形。(参考:ツインテール)
ツインテール 長髪を後頭部で左右二つに分けて結ぶ髪形。ドール系の業界ではツーテールの呼称が一般的。
狭義には
「全ての後ろ髪を左右二つに分け、高い位置で結った状態で肩に髪がかかるもの」
をツインテールと呼び、髪を上に上げず、だらりと下に下がった状態をおさげや二つ結び、
肩に髪がかからないものをピッグテール、髪の一部のみを結い上げ、その他の
後ろ髪がそのまま残った髪形をツーサイドアップ等と呼んで区別する。(参考:ポニーテール)
メイド 家の家事雑用をこなす家政婦。一般にメイド服と呼ばれる衣装とセットのイメージで捉えられる。
猫耳頭に猫の耳、あるいはそれを模した髪飾りが付いているキャラクター。
ツンデレ 通常はツンツンした性格で、ある一定条件(主人公と二人きりになる等)
を満たす時に、突如としてデレデレする性格。
年上のおねーさん 文字通り、年上でお姉さん的な存在を指す。必ずしも実の姉である必要はない。
エルフ精霊。非人間キャラクターの典型例。
ロリ 「ロリータ」の略。直訳では幼女と訳されるが、必ずしも低年齢である必要はなく、
外見が少女、あるいは幼女のように見えるキャラクターはこの属性に入る事がある。
(参考:ショタコン)
ゴスロリ ゴシック・ロリータの略。白黒を基調とし、レースやフリルを多用した
ゴシック調の衣装を指す。
どじっ子 ドジな失敗を多くするキャラクター。よくあるパターンとしては
転ぶ、物を落とす、物を壊す、忘れっぽい等の行動が描かれる。
ショートカット(およそ肩に届かないくらいの)短髪。
お嬢様 俗な言い方をすればお育ちの良い子。世間知らずのイメージが伴うことも多い。
ボク女自分のことをボクと呼ぶ女の子。(参考:オレ女)
オレ女自分のことをオレと呼ぶ女の子。(参考:ボク女)
片目っ娘(こ) 何らかの理由で片目を失った女の子。より象徴的に、眼帯や包帯が伴うこともある。
車椅子娘車椅子に乗った女の子。
ショタコン ショウタロウ・コンプレックスの略。ロリが幼い女の子を表すのに対し、
ショタは幼い男の子を表す。
電波系まったく理解に苦しむようなぶっ飛んだ性格の女の子。

これらの属性がキャラクターのどの特徴に軸を置いて名づけられているかを検証するべく、
「身に着けるもの」、「身体特徴」、「職業・立場」、「年齢」、「性格」
の5つのファクターに其々の属性を振り分けてみる。

Table.4 属性とその属するファクター
類型名身に着ける物身体特徴職業・立場年齢性格
メガネっ娘(こ)     
   
委員長     
巨乳     
貧乳     
戦闘美少女     
人造少女     
ポニーテール     
ツインテール     
メイド    
猫耳     
ツンデレ     
年上のおねーさん    
エルフ     
ロリ     
ゴスロリ    
どじっ子     
ショートカット     
お嬢様    
ボク女     
オレ女     
片目っ娘(こ)    
車椅子娘    
ショタコン     
電波系     

一つの属性が、複数のファクターを内包しているのも少なくない。
これらの属性を適宜ピックアップして組み合わせることにより、少なくとも
「身に着けるもの」、「身体特徴」、「職業・立場」、「年齢」、「性格」
の5つのファクターに関して、非常に複雑な情報を一つや二つの属性を持たせることで
表現することが出来ることがこの表から見えてくる。
巨乳と貧乳など、同時に成立し得ない属性もあるため、単純に計算できないものの、
上で例として挙げた25の属性から二つを抽出するだけでも、その組み合わせは数百通りになる。

このようなラベルとそのラベルが導く設定が読者に共有されることにより、
マンガでは表現の難しかったキャラクター設定の伝達が、容易となった。

- マンガから小説への回帰 -

小説から漫画への変換は一筋縄ではいかない。小説に出来て漫画に出来ない表現を
補完するために漫画は独自の文法を作り上げた。その一端が先述した漫符やキャラクターの概念である。

では、独自に作り上げた文法の上に成り立つ漫画を再び小説の世界に回帰させたものが
ライトノベルであるならば、ライトノベルは漫画表現から何を得たのか。

漫画にあって小説にない、すなわちマンガ独自の表現技法のうち、漫符のように文字に変化させることの
出来ないものは除くとして、特に有益で、小説に回帰させる価値があるものは、キャラクターの概念
ではないだろうか。類型化されたキャラクター設定を利用することで作者は細かい設定をいかに
読者に伝えるか、という極めて難しい作業を回避できるし、逆に読者は必要最小限の情報を与えられる
だけで、作品の世界観を掴むことができる。キャラクターの概念を理解さえしてれば、深い読解力を
求められないという点で、文学小説にあまり親しみのない世代にも、ライトノベルは読みやすい。
ライトノベルにマンガ調の挿絵が入っていることが多いのは漫画とライトノベルの間にある強い関連性のせいであろう。
これは自分自身の感想であるが、ライトノベルを読んで頭の中に想起される映像は、しばしば動画でなく
コマ割りされたマンガである。ライトノベルの読者はライトノベルを読むことで頭の中にオリジナルの
マンガを想像している。挿絵は読者の想像を助けるために挿入されるものであるが、ライトノベルの読者が
マンガを想像する以上、写真や緻密で具象な絵は想像の助けとはなりにくい。そこに必要とされるのは
必然的にマンガ特有の表現が十分に反映されたマンガ調の絵であろう。

但し、マンガ調の絵が挿絵として挿入されているからといって、それはライトノベルに必要不可欠な
ものとは言えない。挿絵がなくてもライトノベルと思われる作品はたくさんある。従って
「マンガ調の挿絵の入った小説」をライトノベルとする、という定義づけは意味を成さない。

「ライトノベルのレーベルから出されている小説はライトノベル」という、いささか乱暴な定義づけも
かつては考えられたが、最近は書いている本人が意識しているかしていないかは別として、
普通の文学小説の格好をしているにも関わらず、中身は極めてライトノベルに近い
(あるいは完全にライトノベル)となっている作品が多く出版されている。
西尾維新氏が角川ノベルズから出版している「戯言シリーズ」を代表とする一連の作品は
装丁といい本文といい、ライトノベルそのものと言っても過言ではない。
戯言シリーズはライトノベルではないと考える人もいるようであるが、私はこれは完全なライトノベルと考え、
このような作品がある以上、レーベルに根拠を求める定義づけは無意味と考える。

以上の論考から、ライトノベルとは
「キャラクターの概念を中心とするマンガの表現技法を積極的に取り入れる事で読みやすくした小説」
という定義を提唱したい。この結論は『ライトノベル入門』にも見られるが、挿絵に根拠を求める
ライトノベルの定義付けについてこの本は結論を曖昧にしたままにしているのに対し、私は
その定義を明確に否定する点で見解が異なる。

さらに強調しておきたいのは、「ライトノベルはSF、ファンタジー等といった"ジャンル"ではない」
という主張をこの定義は含んでいる。ライトノベルはマンガの文法を小説表現に持ち込むという
技法であり、ジャンルではない。実際のところ、ライトノベルには(偏りはあるにしろ)SFもあり、
ファンタジーもあり、ギャグもあり、多彩なストーリーが混在している。

- ライトノベルは誰が作ったのか? -

ライトノベルの定義がはっきりしないまま、初めてこの世に生み出されたライトノベルが
いったいなんなのか、という議論をすることは難しい。
源氏物語もライトノベルである、と主張する者もいるくらいで、やはり定義がはっきりしない限り、
はっきりとした議論は難しいだろう。

但し、おそらく間違いないであろう所として考えると、ライトノベルに行き着く系譜の前身として
「コバルト文庫」を筆頭とする少女向け小説があることは間違いない。その特徴はここまでで
議論してきたライトノベルの特徴をそのまま引き継いでいる。
オタク業界に関するムーヴメントは女性向け分野の中から発生するという説は
ライトノベルに関しても有効である、ということが言えるだろう。

- おわりに&追補 -

ここまでの議論をあらかた書き上げたところで、またライトノベル研究において
注目すべき研究書が出版された。

東 浩紀氏が書く『ゲーム的リアリズムの誕生』がそれであるが、
サブタイトルに『動物化するポストモダン2』とあるように、これもまたオタク学研究書としては
ベストセラーとなった『動物化するポストモダン』の続編である。

両者を併せて読んでいただくとよりわかりやすいが、本稿での議論がこの本の中では
さらに深く掘り下げられている。特に私が「類型化された」と述べている部分
に関し、氏は「データベース」という表現を用いて議論している。この表現は
極めて簡潔で、本稿においてもこの用語を使おうとも考えたが、コンピュータで
データベース(特にイメージ的にはリレーショナルデータベース)というものを
扱った事のない人には逆にわかりにくくなってしまう可能性があると判断し、
冗長に見えるかもしれないがあえて「類型化された」という表現を利用した。

『動物化するポストモダン』、『ゲーム的リアリズムの誕生』は共に
内容が深い上に比較的読みやすい。興味を持たれた方は一読する事をおすすめする。

- 参考文献 -

  1. 『ライトノベル「超」入門』(新城 カズマ、ソフトバンク新書、2006年)
  2. 『モーツァルトは子守唄を歌わない』(森 雅裕、講談社、1985年)
  3. 『モーツァルトは子守唄を歌わない 1-4』(有栖川 るい、スクウェア・エニックス、2001-2002)
  4. 『動物化するポストモダン』(東 浩紀、講談社現代新書、2001)
  5. 『ゲーム的リアリズムの誕生』(東 浩紀、講談社現代新書、2007)


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