古文(いにしえのふみ)〜現代版竹取物語3
「ミッション・オブ・イグザム(後)」
時を同じくして、こちらは水元家。
薊のよき理解者として、実に的確な人生の道標となった尚は、何か大事な事を忘れているようだ。
勿論、忘れていると言う事は、本人は気付いていない。
尚はのんきに大きな背伸び等して...上下逆さまになった世界に、仁王立ちしている“誰か”を見た。
その“誰か”がいったい誰なのか、を尚が認識し、なおかつ何故仁王立ちしているのかを
思案し始め...数秒の後、尚の顔から血の気が引いていった。
「さっきの話、忘れたとは言わせないわよ?」
.....口座から、お金を“ちょっと”下ろしたですって?2万円も落としてるじゃないの!!.....
神様。悪いことはするものじゃありません。 因果応報、いつかは自分に跳ね返る。
そんな懺悔をつぶやきつつ、尚の目が、また光を....
尚はベッドから跳ね起きた。
「...夢...」
悪夢だった、と言いたい所だが。これが真実なのは尚の記憶に新しかった。
まったく、夢と同じ状況が前日の夜展開され、さらには小遣いの減額を命ぜられて、
泣く泣く眠りについたのだから。
夢でまで怒られるなんて。尚はまた、泣きたくなった。
頭を振って、沸き上がった思いを振り払い、顔を洗おうと起き上がる。
冷たい水に顔を浸して、まだぼーっとする頭を醒ます。
ざわついた心も、いくらか洗い流された気がする。
「おはよう。」
「.....」
キッチンに立つ明音は無言。尚が声をかけても、梨の礫。
まいったなぁ...と尚は少し考えて、明音の元へと近づいていった。
「明音?」
「.....」
明音はなおも無言で包丁を動かしている。
「昨日のことは、謝る。僕が悪かった。引き出した分は自分の小遣いから戻しておくから。ね?」
まだ怒ってる?明音の肩に手を置いて、尚が言う。
ぴた、と包丁の動きが止まった。
「本当に反省した?」
「本当に、本当。なんなら今君に返してもいい。」
じっと、明音は尚の目を見る。
おもわず、そらしそうになる目を尚はぐっと押しとどめた。
ふと、明音の目がゆるんだ。
「2万円は別にいいんだけど...自分から謝ってくれたから、許すわ。」
...その素直さに免じて、ね。...
予想よりもはるかにあっさりした返答に、尚はしばらく呆気にとられた。
数秒の間、なんとも間抜けな顔をした所で、にわかに尚が現実を理解する。
「このっ、可愛いところ見せやがって。」
かなりお固い人だったのに、いつのまにそんな技術を?
明音の首っ玉に抱きついて、尚がじゃれつく。
と、どこからか現れた竹美に、背後からぼそっと告げられた言葉。
「あの...ごはんは?」
明音の包丁は止まったまま。我に返った尚が腕時計を見ると。
完全に遅刻だった。
ガラグヮラピシ、ドッシャン!!!
言葉に綴りにくいほど派手な音を立てて、教室の扉が開いた。
ついでに、衝撃で外れたドアが近くの生徒を押し潰したのは、ご愛敬か。
「あいおーうあよね?hぁhぁあいおーうあよね?」(大丈夫だよね?まだ大丈夫だよね?)
竹美が口にトーストをくわえたまま、教室に“文字通り”転がり込んでくる。
その時担任は教卓に立ち、“えんぴつ書き”で名簿の最後に追加された「井本竹美」の名前の欄に、
欠席...と丁度斜線を引き終わった時だった。
勿論、先生が慌てて2重線を引いて取り消したのは言うまでもない。
「竹美!!待ち合わせに来ないから今日は休むのかと思ったわよ!!」
おかげで私まで遅刻しそうになったじゃない!!3分ほど前、同じように
教室に飛び込んだ薊が大きな声をあげる。
「あー、こほん。HR、続けていいかな?...あ、井本さん、ちゃんとはずしたドアを直...」
ギロリ、と薊の睨みの視線を感じた先生が言葉を濁す。
「...すように栗島に言ってくれるかな?」
教え子は呼び捨てで、竹美はさん付け?なんて疑問がふと薊の脳裏を霞めたが、もう気にする事でもない。
まぁ、会って早々に呼び捨てにはしづらいだろう。まして、『竹美』だから。
おいそれと、ファンクラブにまで入った、『井本竹美』を呼び捨てにはできまい。
薊がそんな事を考えながらドアに向かって歩いていると、やっとの思いで重たいドアの下から
抜け出してきた生徒の頭を危うく蹴り飛ばしそうになる。
しかしそれより何より、さっきまで目の前で生徒を押し潰していたドアが、突然視界から消えたことに
薊は驚いた。見ると圭が何も言わずにドアを持ち上げて直そうとしている。
「重たいし、コツがいるから僕がやっとくよ。」
薊は、何も言えなくなった。
この時、背後では朝からレアな(決して“生の”という意味ではない。)竹美の顔を見れて
非常にご機嫌の担任が、HRを終わらせようとしていた。
慌ただしき、朝の学校風景。
ガラグヮラドタ、ドガン!!!
言葉に綴りにくいほど派手な音を立てて、部屋の扉が開いた。
他の人が飛び上がるほど驚いてドアを見ると、大きく肩で息をする尚が立っていた。
「わ...る...い。遅刻だな。」
「いえ、今日は会議もありませんし、それほど気にする時間じゃないと思いますよ。」
腕時計を見れば、始業時刻を30分程オーバーした所だ。
「あぁ、そうか、うん。ならよかった。 で、何か連絡事項は入っているか?」
朝から疲れた体を椅子の上に置き、デスクに鞄を置きながら尚は聞いた。
「えぇっと、事務から2、3細かな連絡がありました。あと明日の会議の連絡ですかね。」
そうかそうか。と尚は軽く聞き流した。
あぁ、などと間の抜けた声を出して、彼はもう一つ追加した。
「そういえば30分程前に、取引先から9時20分までに至急電話欲しいと。」
尚は、またそうかそうかと聞き流そうとして、はたと考えた。腕時計を覗き込む。
間違いない。私は始業時刻に30分遅刻した。
始業時刻は9時だから、今9時30分。
「馬鹿!どうしてそういう連絡を先にしない!!」
慌ただしき、朝の会社風景。
試験がだんだん近づくにつれ、生徒の顔は引き締まり、休み時間に無駄話に興じる生徒も
見る間に減っていく....というのは世の高校教師全員が夢見る試験前の光景であろう。
もっとも、現実はそう甘くない。むしろ、試験というものをけだるげに話の種として
また無駄話に興じる生徒が大半だ。
昼休みが始まる鐘がなってすぐ、圭が薊の元へやってきた。
「薊。昼飯さ、違うところで食べない?」
教室で食べると、どうにもうるさい生徒が多くて、落ち着いて食事などできやしない。
まして竹美がいるのだから、ますます好奇の目にさらされる。
試験前で勉強している事を知っているから、声こそかけないものの
(単に薊を恐れているだけかもしれないが。)
やはり、食事しやすい環境であるとは言い難い。
「どこ?廊下じゃ無理よ。ますます食べにくくなっちゃう。」
「ほら、僕司書の先生と仲いいからさ。司書室借りる許可もらってきた。」
あそこなら、生徒はほとんど入れないし。丁度いいじゃない。
薊は、1も2もなく了承した。ありがたいと思うと同時に、
圭がこんなに優しい人間だったかと、薊はまた少し圭を見直す事になった。
「荻原先生、連れてきました。」
ぞろぞろと、パックツアーよろしく司書室に連れだって入ってくる3人。
「あ。来たわね!。新進気鋭、話題のアイドル、竹美ちゃんとその敏腕マネージャ。」
先に自分の弁当...例によって360円の仕出し弁当を開いて手をつけていた先生が、
顔を上げて出迎える。
「荻原先生...、私は『付・属・品』ですか?」
「あぁ、ごめんごめん。敏腕マネージャの.....、マネージャの...」
先生の言葉が止まる。
「薊です。栗島薊。」
「そう!薊ちゃん。これからも、よろしくね。あ、でも司書室では静かにすること。」
「ほら、薊。そろそろ食べないと時間なくなるよ?」
横でみていた圭がせっつく。時計を見ると昼休みは残り20分といった所だった。
「あ、まずい!早く竹美、食べよう?」
うなずいて、竹美が机の上に
ドスン!
と音を立てて置いたのは、黒塗りの弁当箱...もとい、3段重ねの重箱。
一番下の段にはぎっしりと、ゆかりのかかったご飯が。
真ん中の段にはぎっしりと、いろいろな種類のおかず。
一番上の段にはぎっしりと、カラフルな色のデザート。
耐性のない荻原先生が口に含みかけていたお茶を派手に吹き出したのは言うまでもない。
「な、な、な、そ、そ、それ...」
その混乱たるや、デスクに置いてある書類が濡れたのも気にならないほど。
おそらく、教室で落ち着いた食事が出来ないのは、この弁当に因るところも大きいのでは...?
この圭の考えは、おそらく誰に聞いても納得するに違いなかった。
鐘が鳴る。昼休みが終わる。
竹美の食事は....終わっている。常人には信じられないその速さ。
その驚きたるや、言葉に表わしにくいほど。
あえて表現しようとすると...
“鳥だ! 飛行機だ!! スーパ....!!!”といった所らしい。
ちなみに、これを言ったのは後日の荻原先生で、古くてネタがわからん、という文句は
言ってはいけないお約束というものだ。
言ったら最後、命の保証はないと思ったほうがよい。
しかも驚くべきことは、その重箱の中に、食べ物が入っていた形跡が全くなくなっていること。
隅々まで舐められたようにご飯粒一つ、ソース一つ、汁一つも残っていない。
小分けのためのアルミカップなどごみを除けば、洗い晒しだと言っても誰も疑わないだろう。
どこか端をつつけば残りが出てくるだろう、と言うあなた。それこそ文字通り
“重箱の隅をつつくような話”だ。
20分で3段の重箱を完食...。なお付け加えておくが、食べ物は全て竹美の胃の中。
誰もおすそ分けを貰っていない。荻原先生の思考回路は混乱したまま、しばらく仕事も進みそうにない。
薊と圭がその状況を何とも不思議に思っていないことが、混乱に拍車をかけていた。
尚が受話器を置いた。
まったく、今朝の遅刻騒ぎで気が動転して、今日は1日中仕事の進みが悪い。
プログラムを打ち間違えて危うくシステムを破壊するところだったし、
急須に茶葉を入れ、その上からお湯を注ぐつもりでコーヒーを注ぎそうになったり。
いわゆる、バイオリズムの停滞。何をするにしても、なにかしら裏目にでる。
こういう日はとっとと帰るに限ると、家で待つ明音の所へ早めに帰ると電話をした所だった。
とっとと帰って、今日はゆっくりしよう。
ゆっくりして、落ち着いたら竹美ちゃんの勉強も見れるだろうし...。
まったく、運の悪い日もあるもんだ、と。そもそも遅刻の原因が自分にあることは棚にあげて尚がぼやく。
尚は早々に荷物をまとめ、終業時刻を知らせるチャイムが鳴り終わるかならないかのところで
タイムスタンプを押して、会社を後にした。
会社から駅までしばらくの道のり。ほんの数分の徒歩でさえ今日の尚には憂鬱に思える。
駅を降りたら帰り際に買い物をしていこうと考え、やっと駅が目の前に見えて来た頃。
ふと、尚の頭に警鐘が鳴った。
いつもなら、少々の悪い予感は無視するが、今日の尚にはどうも無視できない。
おそるおそる、自分の荷物を調べる。鞄を開け、上着のポケットを探り、
内ポケットもズボンのポケットも調べ...定期入れがないことに気がついた。
「......嘘。......」
嘘だと、思いたかった。
「ただいまー!」
「ただいま...。」
奇しくもこの日、家の前で竹美らと尚はばったりと顔を合わせ、同時に家に入った。
きれいさっぱり朝の遅刻を克服して元気いっぱいの竹美と、
朝の遅刻をずるずる引きずって、しかも駅と会社の間を余分に歩いた尚と、テンションは両極端。
夕飯目当てにばたばたと家に駆けこむ竹美に対し、重い足を引きずるように歩く尚。
しかし、そんな重たいテンションも一歩部屋に入ってテーブルを見るなり、吹き飛んでしまった。
もともと、家事全般全てこなす明音は料理も鮮やかに作るが、今日の料理はよりいっそう手が込んでいた。
赤、緑、黄色と目にも鮮やかな色合い。尚と明音の位置に置いてあるグラスには、
贅沢にもシャンパンが注がれている。
色合いに配慮したのか、他の子達のグラスにはジンジャーエールが注がれている。
見た目にはどっちもほとんど一緒だ。
「わー!すごい、すごい!誕生日パーティーみたい!!」
「きれい。すごい料理ですね。」
「また、随分奮発したな!どうしたんだ?いったい。」
皆が思い思いの第一感想を言う。
「竹美ちゃんと、薊ちゃんと、圭君に頑張ってもらうために、英気を養おうと思って。」
と明音が言った。
「さ、手を洗ってらっしゃい。冷めないうちに食べましょう?」
はーい!と不必要かと思えるくらい元気な返事をして、真っ先に竹美が洗面台に向かい、
その後を圭と薊が追う。
「なぁ、明音。...その....食費は?」
恐る恐る、尚が明音に尋ねる。
「なに言ってるの!そういう野暮な事言わないの。大丈夫、お小遣いからは引かないから。」
パッと、尚の顔が明るくなった。
「や、そうか。うん。ならいいんだ。 いやぁ、おいしそう。」
そう言って、手近にあったサラダから一粒トマトをつまもうとして、明音に手を叩かれた。
「だめ。あなたも手洗うの。」
ぞろぞろと、手を洗い終えて戻ってきた竹美達と入れ替わるように、尚は素直に手を洗いに行った。
「それでは僭越ながら私、水元尚がこの華やかな席での乾杯の音頭をとらせていた....」
「「「「長い!!」」」」
息のそろった鋭い突っ込みに、尚は苦笑いした。
「はいはい。それじゃ、改めて、竹美ちゃん、薊ちゃん、圭君の歓迎と試験の成功を願って。」
「「「「「乾杯!」」」」」
アルコール、入っているも入っていないも関係なし。
5人は金色のグラスを持ち上げると、一斉に口に含んだ。
と、次の瞬間。
各々が飲み物を口に含んだ途端、5人が一斉にへんな顔をした。
「「甘い...?」」
これは、明音と尚の台詞。
...これは...シャンパンの甘さじゃない。明らかに....
ジンジャーエールの味。
尚が、恐る恐る圭の方を見ると。
「尚さん、これ。」
差し出されたグラスに少し口をつけて見ると。
こちらはまさしくシャンパンの味。
「明音...。」
「あ...。間違えちゃったみたいね。」
間違えた、といっても時すでに遅し。
つまり、尚と明音のグラスにはジンジャーエールが、圭と竹美と薊のグラスにはシャンパンが注がれていて、
そして今、竹美も薊もシャンパンの入ったグラスを空けてしまっていたから....
尚はしばらく明音の顔と竹美、薊の顔を意味も無く交互に見合わせた。
「よし!今日は、許す。飲もう!」
皆、平気だろ?そう言って尚は自分のグラスと明音のグラスにシャンパンを注いだ。
「それでは改めて。乾杯!」
奮発して買ったシャンパンは品の良い風味。
気がつくと、ボトルが1本なくなっていたりして。
料理もおいしいものだからますます杯が進む。
しかし、どんなにおいしくて、どんなに飲みやすいからとて、
シャンパンは、シャンパン。
もとい、お酒はお酒。
アルコールは人の性格をかえるもの。
昔から酒の世界に「三上戸」という言葉がありますが、これすなわち
泣き上戸、怒り上戸、笑い上戸の3つ。
質の悪い泣きや怒りがいないのはまだ良いものの、どうやら笑い上戸はいたようで。
「キャハハハハハハハハ!」
...これは...飲ませたの失敗だったかな?
そんな思いがふつふつと尚の胸に沸き上がって来る。
賑やかなのはいいが、こりゃやかましいと言ったほうがいいだろう。
尚の横に来ていた薊がぼそっとつぶやいた。
「賑やかな性格ですね。」
「まったく。そろそろ止めさせた方がいいのかな?」
悠長な会話をしている二人に、 明音のもっともな突っ込みが入った。
「...話し合う暇があったら止めたほうがいいんじゃない?」
「「...確かに。」」
ジャストのタイミングで二人はうなずいた。
「さぁて、そろそろお開きにしようか。これ以上大騒ぎすると、後が大変だぞ。」
薊と圭は素直に従おうとした。
時間ももう遅い。そろそろ切り上げないと、体質的に平気とはいえ、下手したら慣れないアルコールが
明日まで残る可能性もある。
しかし、この子だけは、違った。
「やだ!!まだ飲むの!!」
「いや、そう言っても明日があるしね、もうそろ...」
「だぁめ!まだまだ、平気平気。 飲むの!!」
いやいや、と首を振って駄々をこねるその姿は、どうにも扱いにくい。
...人、これを大トラと言う...。
「....明音、パス。」
情けないほどあっさりと、尚は明音に先を譲った。もとい、押し付けた。
「情けないわね...本当。」
「いいんだ、うん。私は自分の身がかわい....」
ぎろり、と明音に睨みつけられた尚はあわててかぶりを振った。
「....いけど、君の頼みなら断われないなぁ...ははは.....」
冷や汗が頬を伝うのを、尚は感じ取った。
「もう少し、粘りなさい。」
結局。尚が明音にかなうわけもなく。
しばらく額に指を当てながら古畑○三郎ばりに考え、ゆっくりと行動に出た。
「竹美ちゃん。もういいかげんにしないと....」
テーブルに置かれたボトルに手を伸ばそうとした竹美の手をさえぎると、
珍しく冷たい声で尚は言った。
「明音に交代するよ?」
ぴと。
竹美の動きが止まる。
竹美の耳に顔を近づけて、こそこそと尚は続けた。
(...今はあれでいるけど、明音にこれ以上飲ませるとどうなるか....わかるかい?...)
その、唯ならぬ言い方に、竹美がガタンと音をたてて席を立つ。
「...おとなしく、寝ることにします。 おやすみなさい。」
あやつり人形のように、妙に角張った動きで、竹美が戻っていく。
ドアに手をかけて、外に出るとき、竹美はくるりと後ろを向いてもう一言、付け足した。
「明音さん、お酒は、ほどほどに。お願いします。」
返事も聞かず、竹美はそのまま部屋へと向かった。
何か、本能的第六感に危険を感じとった薊は圭の袖を無理やり引っぱり、続いて外に出る。
残ったのは、頬に一筋の冷や汗を流す水元尚と、隣に立つ水元明音。
全ては、コマ送りのビデオ映像のようだった。
次の瞬間、玄関で薊は無造作に耳に指を入れ、反射的に音を防ごうとした。
明音の肺に、一気にたくさんの空気が入る音がする。
「尚!!! 何を話したの!!!!!」
これぞ、明音のお得意、お手製音響爆弾。
耳を塞げなかった圭は、この後1時間は耳鳴りが止まらなかったとさ。
「な、何も話してない!ホント、まだ何も話してないってば!!!!!」
「って事は、話そうとしてたって事ね!!」
あわれ、合掌。
「...今日、水元さんの家に行くの、怖いなぁ...」
お昼ご飯を食べながら、圭がつぶやく。
「大丈夫だよ。あの二人、仲直りしてるから。」
圭の3倍近くの速さでせっせと箸を動かしていた隣の竹美が、まったく手を動かすテンポを変えること無く言う。
「...本当?...」
聞き返したのは、薊の方だった。
「尚さん、身の潔白を必死になって説明してたし。 今朝は私も証言台に立たされたよ?」
「なるほど、変なことは何も聞いていないと、証人喚問されたって事か。」
「で、尚さんが勝訴したって事ね?竹美。」
重箱から、竹美が最後の一粒となったご飯を食べて言う。
「そゆこと。」
「それにしても、怖いよなぁ...」
箸の動きを止め、圭が空を見上げてつぶやいた。
「だから、大丈夫だって。」
「いや、今度は明音さんの方。 あの後耳鳴り止まらなかったもん。 薊はちゃっちゃと耳塞ぐし、なぁ?」
じとっ、と横目で薊を睨む。
「ごめん! 忠告しようと思ったけど、間に合わなかったの。」
ぺこぺこと、薊はまるでキツツキの如く頭を下げて謝った。
「だからって、走る時に言ってくれたっていいじゃないか...。」
どうも腑に落ちない、と圭は文句を言い続けた。
「はいはい。 お願いだから喧嘩は司書室の外でやってね。あ、図書館もだめよ。」
あわや、険悪な空気が流れ込むかといった所で、荻原先生が流れをせき止めた。
「ところで、これだけ量が違うのにあなた達より竹美さんの方がもう食べ終わっているのはどういう事?」
「「いつもの事です。」」
ぴったり揃ったその言葉は、竹美の脳裏に“喧嘩するほど仲がいい”という諺を
否が応でも思い浮かべさせた。
「リミット記号の意味はこれでわかったわね。 それじゃあ、これをグラフに当てはめると...」
試験を目前にして、やっと内容らしい内容に入った竹美。
先日とは逆に、今日は圭の方がのんびり紅茶をすすっている。
「あれ?今日は薊ちゃんの方が教えてるんだね。」
つい先刻、会社から帰ってきた尚が、締めていたネクタイを緩めながら話しかける。
「えぇ。ここまで来たら、あとは薊ちゃんのテンポで、力づくでも進んだほうがいいかと。」
「それじゃ私が力しかない女みたいじゃない。」
かりかりと動く竹美の鉛筆から目を話さず、薊が突っ込み返す。
顔こそ変わっていないものの、声は笑っている。
「まぁまぁ、褒め言葉、褒め言葉。 圭君、ちょっといいかな?」
尚の手招きに応じて、圭が立ち上がる。
ダイニングについた所で、圭に椅子を勧める。
「さ、て、と。 甘いものが欲しいな。 圭君、ココアいる?」
「あ、はい。いただきます。」
ほどなく、二人の手元には甘い香りを漂わせたココアが運ばれた。
「あぁ、おいしい。 さぁ圭君、いきなり本題だ。」
尚の視線が動くのを確認してから、尚は続ける。
「薊ちゃん、かわいいよね?」
その刹那。 あまりに予想外の台詞に圭は危うく飲み込みかけていたココアを噴き出しそうになった。
動転した体を無理やり抑えて、なんとか口の中のココアを嚥下する。
「な、何を急に言い出すんですか?!」
一人慌てる圭と、対照的に落ち着き払った尚。
「僕の目は節穴じゃないよ。 ここんとこ、二人の関係が変わったのはお見通しだよ?」
顔を桜色に染めて、うつむく圭。
「別にとがめるわけじゃないさ。そんな立場でもないしね。
むしろ、彼女の背中を後押ししたのは僕だから。」
だから… 尚は語りかけた。
「後押しがいるくらい、薊ちゃんも真剣に考えてた。悩んでたよ。
いつまでも、暖かい目で、長い目で付き合ってあげること。これは薊ちゃんに限らないけど、
僕からのささやかな、助言。 いや、戯れ言と言ったほうがいいかもね。」
沈黙が流れた。
ドアと、廊下を隔てて、女の子二人の声がかすかに聞こえる。
突然、尚の嘆息が聞こえた。
「この台詞、若い頃の自分にも伝えたいもんだよ。」
「…何かあったんですか?」
静かに、圭が聞く。
「ん?うちの奥さん、付き合うときは大変だったんだよ? しゃれじゃないけども、
彼女の“正確な性格”を自分の中で見つけるのに、ずいぶんかかった。」
−おかげで、よく喧嘩したものさ。 でもね。
尚の声が、圭の心に響く。
「お互いの良いところを知っていたから、そこが好きだったから、別れなかったんだと思うよ。」
「苦労したんですね。」
圭が思わずくすくすと、忍び笑いをもらす。
「あぁ、まったく。 自分の良いところは、早いうちにアピールしときな?後悔はしたくないだろ?」
「はい。わかりました。 忠告として受け取っておきます。」
「忠告ってほどの事でもないけど。 さ、そろそろ終わったころじゃないかな。見ておいで。」
廊下の向こうからは、一仕事終わって大きく伸びをする竹美の声がする。
「随分良いこと言うわね。」
「あ、明音?いつからいたのさ?」
後ろからかけられた声に、尚が振り返った。
「ついさっきから。 まぁったく、格好つけちゃってもう。素直に言えばいいじゃない。
『明音には頭が上がらなかった』って。」
「今でもそうだと思うけど。」
「あら、私はそんなに怖い?」
「いや、まぁ...ノーコメントとしとこう。」
テーブルからカップを持ち上げ、椅子から立ち上がり、明音には背を向けたまま尚は窓の外を見た。
「明音は僕のどこが好き?」
今日、何度目かの静寂が流れた後、明音は思いついたように言った。
「真面目な所かしら。 でもお固くない。面白半分、真面目も半分。 あなたは?」
今度は尚が静寂を作った。
「君の強さに惚れ....わわ、ちょっと待って!」
明音が右手に高々と掲げた拳が、あわや振り下ろされる前に尚は先手を切って止めた。
「君の精神的強さ、バイタリティーにだよ。」
そのままの姿勢で固まったまま、明音がぱちくり、と呆気にとられたようにまばたきする。
「あ...そう。 ...結局、似たもの同士なのね。」
どちらからともなく、笑いが漏れ出して来る。 二人して、しばらくの間なにも語らず笑っていた。
.....尚の背中に、安堵の冷や汗が一筋流れた。.....
決戦の時。試験日。
いつもはがやがやと喧しい教室も、さすがにこの日ばかりはぴりぴりした緊張感が流れる。
数学の試験は、その中でも要の中の要。
しかも最終日の最後の時間と来た日には、緊張感もさらに高まるというもの。
「はい、机の上片付けて。............用意、始め。」
薊、圭は問題用紙を一瞥するなり、確かな手応えを感じた。
...自分の成績でなく、竹美の成績に。
二人で考えた傾向予測はほぼ完璧。 つまり、竹美に厳選して教えた内容が
見事そのまま出ていること。
しかも、難易度は比較的低いと来た。
...事前に、裏取り引きがあったかどうかは、詮索してはいけない。
勿論、竹美に解けそうな問題なら、二人はまったく問題ないわけで。
鉛筆は紙の上を滑らかに滑っていった。
チャイムの音に合わせて、教室の空気がいっぺんに緩む。
試験中は、ホームルームもない。鞄に荷物を詰め込んで薊は教室を出た。
廊下には先に出ていた圭が待っていた。
顔を見るなり、お互いにニヤリと笑いながらすたすたと近づいていく、
どちらからともなく右手を掲げて、
バチン!!
と、大きな音がなった瞬間、圭が右手を庇いながら動きを止めた。
「ナイスハイタッチ....と言いたい所だけど痛いよ....今のは...」
「え、そう?私は全然痛くないけどね。」
「今の音聞いたら誰だって痛いと思うけどなぁ...。まぁ、上手くいったね。」
「もう、バッチリ!! 数学の先生にボーナスはずんじゃおうかなぁ...」
「おい、馬鹿! 人前でその話はするなって...あ、来た来た。」
一足遅れて、竹美が教室から出てくる。
「やったね!」
顔を見るなり、お互いにニヤリと笑いながらすたすたと近づいていく、
どちらからともなく右手を掲げて、
パチン!
「もう、バッチリ!」
「がんばったね、と手放しで褒めてあげたいところだけど..」
圭が語尾を濁した。
「薊、やっぱりさっきと力が違うよ...」
「き、に、し、な、い、の。 さぁ、急いで尚さん明音さんに報告しなきゃ!!」
廊下に、3重に重なった駆け足の音が響いた。
「よくやったね!」
玄関先で話を聞くなり、お互いにニヤリと笑いながら近づいていく。
どちらからともなく右手を掲げて、
「あ゛あ〜! 尚さ〜ん!身長高すぎて手が届きませ〜ん!!!」
竹美がじたばたと尚の足元でもがく。
尚が優しく笑いながらしゃがんで、今度こそ竹美とハイタッチした。
続いて圭と薊にも、同じようにタッチする。
「尚さん、それは身長低い私たちへの嫌味ですか?」
「いや、そんな事はないない。 軽い冗談だからね。」
「嫌味にしか聞こえないよぉ。」
ぶぅぶぅと、聞こえる薊と竹美の文句に、尚は身をすくめた。
「さぁ、ささやかながら、お祝いだね。 こっちにおいで。」
ばたばたと、靴を脱ぐ音がする。真っ先に靴を放り出して奥に走っていった竹美。
背が高い尚には、薊と圭がこっそり後ろで手を繋いでいるところも、実はしっかり見えていたりしたのだ。
ミッション・オブ・イグザム(後) Fin.
尚の独り言。
『え?あぁ。 裏取り引きですか?ありましたよ、確かに。 竹美ちゃんの写真1枚でね。
但し、ちょこっとだけ細工しておきましたけど。 なに、大した事じゃありません。
日光に当たると3日程で脱色するインクで印刷しただけです。
そろそろ、像が薄くなってくる頃じゃないですか?』
今度こそ、Fin.
後書き
混迷の極みを見せそうでしたが...。なんとか書きあげました。
ミッション・オブ、・イグザム後編のお届けです。楽しんでいただけましたでしょうか。
うーん、圭と薊の関係は秘密裏に進んで....ますか?
どうも秘密になりきっていない気もしますが...。
尚と明音の甘々っぷりもありますが、圭と薊は、この先どうなるやら...?
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