覚醒剤。
といっても、麻薬とかというような末恐ろしいものではなくて、
ここでは文字通り、『目を覚ます』ための薬。
ロンに『一番良い睡眠薬は?』と聞くと、
ハーマイオニーが横にいてくれることだ、と即答するという。
ところが、ロンにも悩みがあって。
1年間に数回だけ、効果てきめんの覚醒剤が、処方されるそうな。
これはある年の、覚醒剤が処方されたある日の、お話。
「紙飛行機、飛ばそ?」
眠い.....
明け方、まだ日も開けきらない頃。
何の刺激もないのにふっ、とロンは眠りから覚めた。
まだ暗い外では、朝の到来を告げる鳥すらもまだ夢の中らしく、静寂を保っている。
まだ起きるのは気が進まない。
ごろごろと、ベッドの中で溶けたように寝返りを繰り返すうち、
ロンは危うくベッドから落ちそうになった。
(とと、危ない。 落ちたらまたハーマイオニーのお笑い種に...)
頭の中でつぶやきながら、だるい体を持ち上げる。
寝直すにしてもなにか具合が悪いので、とりあえずトイレに寄ろうと、ロンはベッドから降りた。
まだふらふらする体を制御しきれない。
雲の上を歩くような感覚で千鳥足になりながら、明りもつけずにロンはドアに向かう。
寝室を出ようとしたとき、ふと隣にある小さなテーブルが視界に入った。
テーブルそのものは、いつもそこに置いてある。位置も変わっていない。
それでも、何かが、ロンの頭に引っかかった。
霞む目をこすり、改めてテーブルを見ると夕べは出ていなかった便箋が、上に出ている。
まだ霧のような眠気が残る頭で、元の位置にしまっておこうと、テーブルに近づく。
なぜそこに便箋が出ているのか、さして気にも止めずに。
テーブルから便箋を取り上げた瞬間、ロンの頭は殴られたような衝撃と共に、
これ以上ないというくらい、覚醒した。
ロンが手にしたのは、ただの便箋ではなかった。
テーブルの上にあったのは、「さよなら」と走り書きされた手紙。
悔しいかな、ロンには、こうなった理由も、状況も容易に想像できた。
夜中、自分が寝静まってから、ハーマイオニーが静かに抜け出そうとする姿。
涙を浮かべながら、便箋に走り書きする表情。
最後の最後。決心が固まるまで、名残惜しそうに眠っている僕の顔を見ていただろう事も。
It's no use crying over spilt milk.(こぼしたミルクは泣いても元には戻らない)
What's done cannot be undone.(したことは、しなかった事には出来ない)
ぐるぐると頭を駆け巡る先人の言葉。
「また、処方されちゃったよ...」
効果抜群の覚醒剤、副作用は大きな後悔、他いろいろ。
これを処方できる人間は唯一人。
ロンがこの世で一番大好きな、愛しのハーマイオニーだけ。
ロンは、家の中を片っ端から歩き回った。
家を出て追いかける用意をするために、あっちから服を取り、こっちから財布をとり、
まるで、足を止めることが最大の恐怖のように。
あるいは、自分が大いに焦っていることを、誰かに伝えようとするように。
ただ、ロンにはもう一つせかせかと動き回る理由があった。
何か、ハーマイオニーが残した痕跡がないかと、探しているのだ。
その証拠に、出かける支度には関係ないはずのお風呂場や客間にまでロンは足を運んでいる。
物置きを一瞥したロンは、まず比較的小さめのボストンバックがなくなっていることを確認した。
さらにあちこち歩き回り、そろそろ家の中を一周しようかという頃、
ロンは書庫の前で歩みを止めた。
活字嫌いだったロンには信じられないほど、ハーマイオニーはよく本を読む。
それに比例して蔵書数も増えていくため、新しく新居を構えるときに、ロンが作ったかなり大きな書庫だ。
実質的には、ハーマイオニーの私室のようにもなっている。
窓際に置かれたデスク。その上に置いてあるランプの上に、なぜかロンは手をかざした。
ほんの数秒、ロンはそのまま止まっていたが、満足そうに、そして何かを確信したかのように
ロンは部屋を出た。何かヒントと、ある種の確証を得たようだった。
普通の人には、なかなか難しいかもしれないが、そこは長い間寄り添った二人のこと。
少しの情報から、相手の考えを見る事は造作ないらしい。
特にこの場合、何度も妻の家出を経験しているロンがヒントを見い出すのは意外と易しかったりする。
そこまで長く連れ添ったなら、どうしてこうなってしまうのか。
そんな疑問がロンに伝わるなら、こんな事にはなっていないだろう。
手早くまとめた荷物を持つと、ロンは車に乗り込んだ。
まだ暗く人もいない道を、ロンはひたすら走り続けた。
9月のロンドンの日の出は6時過ぎ。 太陽が顔を出すにはあと1時間くらいある。
一見急いでいるようには見えないが、よく見ると
制限速度はぎりぎり、信号にいたっては時たま無視する事もあるくらい。
行き先がわかっているのか、地図も見ず、ロンは無言で車を走らせた。
額にじわりと、汗が滲む。
後悔しているから。反省しているから。
ロンは駅に到着するなり、車を飛び出して窓口に走った。
発車表示には『5時35分発 ロンドン行き』とある。
「すみません!栗色の髪をした女性が入りませんでしたか?」
その剣幕に、駅員がたじろぎながらも答える。
「あ、あぁ。20分くらい前に。 その始発列車の切符を買ったよ。」
‘その’列車はもうホームに入っている。 時計を見ると、あと1分で発車だった。
「ありがとう! 用事があるんだ、お金は後で払うよ!」
そう言い残すと、ロンは駅員が止めるのも聞かずに、ホームへと行ってしまった。
「...あんなに有名な人が、いったいどうしたというんだ...?」
駅員が茫然とするのも、無理はない話だろう。
一方、ロンは階段を2段飛ばしに登り、また2段飛ばしに降りて行った。
ホームが改札の反対側だったせいだが、こういう時ばかりはこの駅の構造は恨めしい。
しかし、いくらまだ若いロンとて、さすがに1分の間に、ホームに着くことは出来なかった。
いや、ホームには着いたが、着いた時にはすでに列車の扉は全てしまり、
ゆっくりと金属音をたてながら、列車が動き始めたのだった。
ロンは上下する肩を落ち着かせながら、動き出す列車の窓を凝視した。
1両目...2両目...3両目...4両目...!
いた。 4両目の真ん中に、窓から外を眺めるハーマイオニーが。
「ハーマイオニー!!」
聞こえたのか、聞こえなかったのか。
少なくとも、ハーマイオニーからの返事は、なかった。
ロンは、また元きた道をたどりながら改札に戻った。
「駅員さん!」
「あ、はいはい。 用事はお済みで?」
「教えてくれ。次のロンドン行きの列車は何分後?」
焦っているロンに対し、駅員はえぇっと、と間延びする声を出しながら時刻表を見た。
「この時間だと...この次の列車は40分後になりますね。
さっきのが始発ですから、まだそんなに多くは来ません。」
ロンは大きく息をしてから空を見上げて考えた。
「わかった、ありがとう。 これは入場料と、チップだ。」
そう言ってロンは5ポンドを駅員の手に渡すと、そのまま走って車に乗ってしまった。
「なんだったんだ...?」
電車の中で、ハーマイオニーはうつらうつらと、船を漕いでいた。
朝早くに家を出たから、まだ体が寝足りないらしい。
さすがに、夜明け前に起きるのは辛かった。
数秒眠って、また起きて、また数秒眠ってと、水面に浮かぶ葉っぱのように
ハーマイオニーはゆらゆらと、意識の境をさまよっていた。
もう数分もすれば窓の外には、じわじわと光が満ちてくるだろう。
はるかかなた、地平線のあたりはもう白んでいるかもしれない。そんな思いで、窓を見つめていた。
あの人は、まだ寝ているのかしら。
窓の外に小さく自分の家が見えることにはっと気がついて、ハーマイオニーはロンを思いだす。
自分が家を出たのは、本当に逃げ出したいからじゃない。
必ず、あの人は追いかけて来ると信じているから。
逃げたいんじゃない。確かめたいの。
怖さも半分あるけれど、それでもなお、ロンがいてくれることを。
私は、絶対、家に帰るの。
ハーマイオニーは繰り返し、繰り返し、自分の心に伝えた。
必ず、帰るんだと。
ロンは車に乗ると、家とはまったく逆の方角に車を走らせた。
40分後の列車に乗っても、絶対間に合わない。
でも、車なら。 もしかしたら、間に合わせる事が出来るかもしれない。
ロンはインターチェンジから高速道路に入り、ロンドン方面のレーンに乗った。
ロンが音を立てて、唾を飲み込む。顔つきが険しくなった。
額にも、首筋にも、手のひらにも、脂汗がじっとりと滲む。
(もう、これしか....!)
次の瞬間。
ロンの右足は、アクセルを折れんばかりの力で踏み込んだ。
シフトレバーは、トップで固定のつもりらしい。
ロンの焦りを代弁するかのように、エンジンが唸り声を上げる。
スピードメータは、振り切れんばかり。
列車は静かにレールのをひた走り、間もなく、ロンドン駅に着く頃。
ハーマイオニーはロンドンですぐに乗り換えて自分の実家に帰るつもりだった。
家出の行き先としては基本中の基本のような所だが、別の場所を探すにはあまりにも時間がなかった。
まだ、朝も早い。それでも今から行けば、着く頃には両親も起きているはずだ。
ロンドンはだんだんと眠りから覚め、駅にもちらほらと人の姿が見えた。
ハーマイオニーはボストンバッグを持って改札を出て、そのまま次の切符売り場へ向かう。
広い通路をさっさと歩いて、目指す切符売り場が見えたとき。
ハーマイオニーは思わず立ち止まり、ボストンバッグはボスンと音をたてて手を離れた。
切符売り場の横に男性が一人立っている。
しばらくの間、ハーマイオニーはそのまま動けなかった。
その男性が顔を上げたその時、ハーマイオニーと視線が合った。
ハーマイオニーが信じられない、といった顔で一歩、二歩とゆっくり足を進める。
「待ってたよ、ハーマイオニー。」
そこにいたのは、紛れもなく、ロン。
駆け寄ったハーマイオニーをロンは優しく抱きとめた。
「...とりあえず、どこか喫茶店に行かないか? 君を見たら安心して、お腹がすいた...」
ぐぅと一泣きした腹の虫が、ロンの台詞を肯定した。
「...よく食べるわね。...」
ロンは、2皿目のサンドイッチを平らげた。
「だって、朝起きてそのまま家を飛び出してきたんだもの。」
「で、よく私があそこで切符を買うってわかったわね。 こんなに早く追い付かれるとは思わなかったわ。」
どうやって、ここまで来たの? ハーマイオニーの質問に、待ってましたとばかりにロンが答える。
「まず、僕がこんなに早く起きたのは偶然。 その時に手紙に気がついて、慌てて出る支度をしたのさ。
その時に家中から手がかりを探した。 実際に使えたのは物置きから小さなボストンが無くなっていたのと、
もう一つは書庫のランプかな。」
「ランプ?確かに、書庫で荷物をまとめたけど。 ランプは消したはずよ?」
「残念でした。ランプは消えていたけど、手を近づけたらまだ少し温かかった。つまり、ランプが消されてから
まだそれほど時間が経っていないって事。服も、殆ど無くなってなかったし、
バッグも小さいから多分、自分の実家に戻るんだと思った。 だから車で駅に飛んでいったんだ。」
最後の台詞を言った途端、ハーマイオニーの目つきが変わった。慌ててロンが補足する。
「あ、勿論言葉の綾だよ。パパじゃあるまいし、本当に空を飛んだりしないさ。」
ハーマイオニーは、それで安心したようだった。
「ホームに駆けこんだけど、タッチの差で発車に間に合わなかった。しょうがないから高速を走って
ロンドンまで君を追いかけたんだ。」
「ちょっと待って。車でロンドン...それも先回りするなんて、いったいどんなスピード出したのよ?!」
ロンが気まずそうな顔で、言いにくそうにした。
それでも言わない訳に行かないので、つぶやくような声で言った。
「えぇっと...一番速い所で100マイルくらい...」(100Mile/h=160km/h)
「100?!?! 制限70の道なのに! 無茶な運転ね...。どうしてそんな運転したのよ?」
あたりまえだろ!? ロンが少し声を荒げた。
「どうして僕がちんたら制限を守って走れるような気持ちになれる?出来るなら200位出したかったよ。」
「だからって、事故になったら取り返しがつかなくなるのよ?」
「とにかく早く、君を見つけたかった。 こうなった理由は僕にあるんだし...」
「じゃ、こうなった理由もちゃんとわかったのね?」
「あぁ。 昨日は君の誕生日だったろ? 僕、手帳に書くときに1週間ずらして書いたらしいんだ。」
ハーマイオニーが、ため息をひとつついた。
「...言い訳は、それだけ?」
「失敗したのは事実さ。 言い訳したってどうにもならないよ。」
特に、君の場合はね。 そう言って、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
「それじゃまるで私が失敗を認めない人間みたいに聞こえるわね。」
「そうじゃないよ。 僕が反省しただけだ。」
食べ終わったお皿を手早くまとめると、ロンは立ち上がった。
「さぁ、行こう。 せっかくここまで来たんだから、今日は海にでも行ってみない?」
突然の申出に、ハーマイオニーはしばらく呆然としていたが、ロンが暗黙のうちに
おわびのデートに誘っているのだと気付いて、満面の笑みで快諾した。
9月の海は、もう人がほとんどなくて、シーズンとはまったく違う顔になる。
それでも、ざぁっ、ざぁっと響く波の音は変わらず、潮風が心地よく頬を撫でた。
海沿いの街をあちこち歩いて、ショッピングをしたり、食事をしたり、1日遊んで
最後に、この海岸に来たのだ。
「海に来たのは、理由があるんだよ?」
突然、ロンがハーマイオニーに小さく言うと、ロンはポケットからがさがさと、1枚の紙を取り出した。
「なに?」
その紙は、随分前に、ハーマイオニーの実家へのルートを書いた地図。
結婚する前に二人で行った時、ロンに書いてあげたものだった。
と、ロンはそれを目の前で手早く折り始めた。
「君の実家に行くときは、絶対君と一緒だ。 絶対、一人で君を追いかけるなんてしない。」
折りながら、ロンが言う。 1分もたたないうちに折り上がったのは、紙飛行機。
「だから、この地図はいらないんだ。」
だろ? ロンが、ハーマイオニーを見つめる。
その真意を理解したハーマイオニーが、微笑んで頷いたのを確認して、
ロンは紙飛行機を、 日が傾きかけた海に向かって思いきり、飛ばした。
紙飛行機、飛ばそ? Fin.
後書き
珍しく、目に余るほどのベタ甘なシーンがありません。
しっかし、ロン君、ハーマイオニーのためとはいえ、随分無茶してくれます(笑)
課題曲は 巨匠...もとい、堺正章の歌う 「さらば恋人」。
ロニィ坊や受難小説 第2段です。
この覚醒剤、効果は抜群でも 副作用が大きすぎますなぁ...
ロン君にとっては、いろんな意味で『良い薬』?(笑)